ああ、と言って日向も空を見上げた。真ん丸には少々かけるが形のいい月がくっきりと、雲ひとつない藍の空に浮かんでいた。
「おい。たばかったなァ悪かった」
「旦那が詫びるのはそこンとこだけじゃねえだろう」
「惚れたのには詫び入れねえぜ」
「そんなモンにいちいち詫びを入れられてたら切りがねえ」
 さして冗談でもないらしい台詞に、今度は日向が舌を打った。
「……色事師が…」
 手から提灯を取り上げ息で吹き消す。そのまま腕を掴んで、横の軒下に引きずり込む。若島津は抗う事はしなかった。顎を取っても妙に大人しく睫を伏せた。
 口先では何度か繰り返していた戯れだったが、実際に触れたのはこれが初めてだった。いつの間にか提灯は足許に落ちていた。辛抱たまらず、着流しの腰に腕を回すと、相手の躯はビクリと竦んだ。構わず日向は板戸に背中から押し付けた。
「…おい…ッ」
「おめぇ、案外…」
 男に慣れていないのは反応で分かった。普段とは打って変わった神妙ぶりにも違和感を感じないではなかったが。
 調子に乗って、唾液が顎に零れるまで舌を強く絡める。やがて息苦しさに喘いで仰け反り、若島津は日向を避けた。
「…三日を、遣るよ」
「ああん」
「旦那の真意に興味はねえ。だが大胡の身内を名乗ったからにゃあ、早晩バレんのも覚悟の上だろ。…ケツまくって逃げんなら早くしな」
「まさか誰にも言ってねえのか」
 若島津は答えなかった。黙って顔を逸らせて日向の肩を押し退けた。
「───来年れぇねんにな、ここら一帯に手入れがある」
 日向は一度は躯を引きながら、その流麗な頬の線を惚れ惚れと眺めて言った。
「……」
「お上がボロ長屋もなんも取り壊して、ご酔狂にも広ぇ敷地に遊戯場みてえなのを作るんだとよ。とは態のいい、貧乏人と裏家業連中の大掃除ってな必定だ。新門一家は元々が大樹公の身内扱い、今のお上とはどうあっても犬猿の仲だろう。密偵ってなほどに大層なモンでもないが、俺はいわばその先遣り雀さ」
「よう喋る口だ」
「喋る以外にも使うがな」
 もう一度と顔を近付けると、これは肘で躱される。
「……薩摩訛りはねぇようだが」
「俺はお江戸生まれのお江戸育ちよ。河ァ渡ったのも数えるほどだ」
「身内が薩摩か。マッポのいぬなのはその筋か」
「…否定はしねえが」
 ハッ、と息を吐いて俯いた後、若島津はいきなり大声で笑い出した。気押されて日向は後ろへ下がった。
「とんだ近松の浄瑠璃物だ。こいつァおかしくっていけねえや」
「何がだ」
「まったく、タケ坊の勘も侮れねえ」
 まだおかしくてたまらないといった様子で笑いながら、「なあ、旦那」と若島津は顔を上げた。
「あんた、上野の跡地には行った事ァあるかい」
「……いっぺんだけな」
「俺も行ったよ。あの天下分け目の大騒動のすぐ後にさ。忘れもしねぇ旧暦七月二十日の夜のこった。黒門望む寛永寺は月夜に照らされ辺りには何百という屍累々、漂う異臭で鼻がひん曲がりそうだった」
 講談の調子のごとく、若島津は淀みなく後を続けた。
「江戸に居たなら旦那も噂には知ってんだろう。官軍様が逆賊どもの骸を弔うはまかりならぬとお達しなすったせいで、ずっとそのまま捨ておかれていたからだ。まだガキだった俺に出来たなァ、月夜を選んで、兄貴の髪の一房なりとも欲しくて忍び入るぐれぇの事だった。…実の兄貴さ。同じ血が身の内に流れてたなぁ、そん時は正真正銘、俺には兄上殿しか居なかった」
 上野寛永寺に幕軍が立て籠もり、それを薩長が大砲でもって攻撃しかけたのは旧暦で数えた七月四日。夕暮れ時にはあっけなく勝敗は決していた。
 その後には幾日か雨が降った。遺骸はひたすらむごい有り様になり、異臭を長く周辺へも漂わせた。
「貧乏御家人の石高なんぞ三十石、命張るほどの恩義を大樹公に頂戴したとも思えなかったが、俺は兄貴を止めなかった。泣いて喚いても止められねぇのは分かってた。鉢金締めた兄貴の背中を見送り、よわい十かそこらのガキながらも、きっと仇は討とうと誓ったさ。それを果たす機会にゃ巡りあえず仕舞、それでも西南の役の時ァ、瓦版見てざまぁみやがれと笑ったもんだ」
 関係ねえと、言葉を挟む事は日向には出来なかった。武家崩れらしい様子が見え隠れするこの男が、新門の身内になったのはそれでかと納得もした。
 野ざらしのままの遺骸と官の仕打ちに腹を据えかね、遺骸をかき集めて荼毘に伏すという侠気おとこぎを見せたのは、希代の侠客、先代の新門の大親分だ。さすがにその時には官も口出しはしなかった。
「今でもか」
「……」
「今でも、おめぇは仇討ちを果たしてぇのか」
 若島津は少しの間を置き、ゆっくりと首を振った。いつもの微かな笑みが口許には戻っていた。
「何にせよ、時世も変わって昔の事にゃ違えねえ。ただ、官も薩摩っぽも俺は嫌ぇだって身の上話だよ」
「俺はどっちだ」
「さあて、どっちだろうねえ……」
 提灯を屈んで拾い、袂から火打ち石を出して灯りを入れ直す。
「念を押しとくが、旦那、猶予は三日だ。それっきりにしてくんな」
「情のねぇ話だの」
「おや、たんと見せたつもりでいるが」
 一端は付けた灯りを、そこで何を思ったかまた若島津は吹き消した。
「見なよ、ほんに今夜はお月さんが見事でもったいねえ。…あれを背に見送られて路を辿るも一興だぁな」


・・・・・・・


「いっそ一緒に逃げるかい」
 振り返って日向が言っても、若島津は顔色ひとつ変えなかった。座敷に踏み入る気配も見せない。肩を廻り廊下の柱に預け、袂の中で組んだ両腕もそのままで、口の片端を僅かに吊り上げただけだった。
「喰えねえなァ、お前さんも。こんな口説き文句は言われ慣れてるってツラしやがって」
「いや。それも悪かねえなと思ってね」
 豆鉄砲がくらった顔になったのはこっちだった。まじまじと相手の顔を見返してしまう。
「本気かい」
「見えねえか」
「…見えるわきゃねえだろう」
 ふうっと細い息を吐き出し、若島津は縁の向こうを眺めやった。新月の夜には映るほどの景色もない。座敷の行灯の明かりがようように届く庭先に、咲き遅れの寒椿が一本、薄ぼんやりと見えるぐらいだ。
「捨てられねえか。それともやっぱり俺が信用ならねえか」
「旦那を信じるの信じねえのってのは、大筋にゃもう関係ねえさ。ただ、……」
 その後をすぐには若島津は続けなかった。横顔で吐く息はこの季節ではまだ白い。
「ただ、何だい」
「…これも、裏切るって事になっちまうのかね」
「どいつを」
「ウチにはなかなか情のこえぇのが居るんだよ」
 日向は立ち上がって若島津の傍まで行った。威嚇のつもりもないではないが、寒かったせいもある。断わらずにしころ戸を音高く閉めて、隣の顔を窺い見る。すると意外や、本気で途方に暮れているらしいのがよく分かった。
「四の五の御託を先に並べる野郎なんざ、俺が遅れを取る相手でもねえだろう」
「いつ誰があんたの心配ぇをしてるってんだ」
 肩先にこぼれた冷たい髪を掬い上げると、パンと手の甲で弾かれた。
「ああ、タケシか」
 それでようやく合点が行って、日向は若島津から一歩下がった。
「どうしてそう思う」
「どうしてって、そりゃお前ぇ、あんだけ逆毛を立てて凄まれりゃあ誰だって…、」
 言いながら、まさかと思ってまた顔を見返してしまう。
「ひょっとしてお前さん、手前ぇじゃ気付いちゃいなかったのか」
 返事はなくとも、何よりそのツラが雄弁に答えを語っていた。呆れて、日向は他にどうしようもなく腰を落として胡座をかいた。
「最初に拾ってくれたオンナに、男が命張んのは定石だろうよ。しかもこんな上玉とくりゃあ」
「誰がオンナだ」
 裸足の踵で肩をこずかれた。さほどの力ではなかったが、戯れ半分、素直に押されて日向は畳に仰向けに転がった。
「あいつとはそういう生臭ぇ情じゃねえ。抱いて寝てやったのなんざガキの頃だ」
 苦々し気に若島津は吐き捨てる。
「歳は近くっても、こちとら親代わりのつもりで育ててたんだ。それが今さら忠義のなんのと言われて泣かれてみろ。……括ったつもりの腹も捻切れそうだ」
 なるほど、自覚がこれまでなかったのならさぞ驚いた事だろう。それでも呑気な言い種に聞こえて日向は笑う。どれだけ熱のこもった目をして、あの若造がこいつの背中を追っているか。身内に妙に甘いのはこの男の癖なのだろうが、いっそタケシに同情さえしたくなった。
「まあ、お前さんの言い分も分かるがな。実を言やあ、躯を繋げたの繋げねえのっては、そうもてえした話じゃねえのさ。命張るのはそんな安いモンにじゃねえからな」
「ふん…」
 それに、と日向は言いながら若島津の形のいい踝に手を伸ばした。しかしこれも邪険に蹴り返される。
「第一、生臭えのなんのって言い出すンなら、お前さんは俺を何だと思ってんだ」
情夫マブなんだろ」
 そこはサラリと言い返されて言葉に窮した。
「おや、違ったかい。少なくともウチのもんは旦那をそう扱ってるらしいじゃねえか」
「……よく言うぜ。お義理で薄皮一枚触らせる程度のくせしやがって」
 薄明かりの中、相変わらず袂手は崩さずに、若島津は口許に微かな笑みを浮かべて日向を見下ろす。抜き身の刃物とまで異名を取る切れ長の目が、今は見事なまでに艶っぽくてたまらない。単の着物は躯の線まで計れそうで、よくもまあこの細腰であんな荒くれ所帯を切りまわせるものだと感心する。
 だが、と日向はこうも思う。
 ひとつっしかねえ命を張るってんなら、極上の女に張って死にてぇのが男ってものには違いない。
「閨で男を転がさず、舌で転がすのがホンの上玉ってな聞いた事があるが」
「まだ言ってんのか」
 足首を掴んだ手は、今度は踏み付けられはしなかった。
「命をやっても損はねえと思ったのは掛け値なしに初めてだ」
「ああ、口の巧さは旦那の方が上手だぁね」
 屈んで覗き込こまれて、やはりどこまで本気か分からず、日向は困惑を押さえきれない。我慢がきかずに腰を掴んで引き寄せる。すると素直に躯を預けて、若島津は畳の上に仰向いた。
 なのに触れた指には躯が強張る。
「生娘でもあるめえし、そこまで躯固くする事ァねえだろう」
「似たようなもんだ」
 目尻に少しだけ朱を掃いて、若島津はそっぽを向いた。
 本気か、と言いかけたが横っツラを張られそうで止めにした。
「手前ぇが撫でて抱いてやるのはラクなんだがな…」
「だろうな」
  取り立てて口が達者なわけでもなかったが、この二枚目がちょいと肩を落として笑ってやれば、大概の女はまんざらでもなさそうに相好を崩す。一言二言をかけてやっただけの玄人女が、初心い素人娘もかくやに頬を染めるのを幾度か見かけた。
 普段のこの男は触らなば切らんといった鋭さだ。それが庇護を与える相手と見れば、まとう気配を和らげて、無自覚に優し気な風情に変わるのだ。
「罪なもんだ。女はこういうツラに弱ぇからな」
 指の背を色付く頬に滑らせてみる。若島津は不愉快そうに眉をしかめた。
「ツラだけで売ってるつもりも毛頭ねえが」
「おうよ。項も肌も、どこもかしこも極上だ」
 一枚、薄い透明な皮を張ったような肌だった。その上、触れると掌にぴったりと吸いついてくる。湿った喉元に鼻を埋めると、肘が押さえきれない力で跳ね上がった。耳に掠った勢いに、日向は首をねじって慌てて避けた。
「オイ、力ァ入れんなって。危なっかしくてしょうがねえ」
「…、……」
 零れた悪態らしき言葉は聞き取れずに霧散した。
 胸元をはだけさせるより先、日向は裾を引き上げて若島津の内股を撫で上げた。奥を探られた時には、ひゅ、と息を呑んで仰け反り、若島津は日向の肩口を強く掴んだ。
「───寄越せよ、全部」
 我慢しきれず耳の下に噛み付いて痕を残す。白い肌に歯形は映えた。
「ば、……、ん…」
「いいか、よく聞きな。俺もおめぇに全部を遣る。おめぇも俺に全部を寄越せ」
「あ、イ…ッ」
 熱い腰を擦り合わせて、掴んだ腰骨の触り心地に酔いしれながらも、日向は外に雷雨の気配を感じていた。











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コピー本より再録。
日向のお誕生日月間なので「私が書いた中ではまぁまぁカッコいいほうじゃないだろか!?」な日向を掘り出してみました。※意見には個人差があります
駆け足ダイジェストなのは発行当時の仕様が既にこうでした…。
突然の明治任侠モノ、元はサイトリクエストで頂いた「あらしのよるに」小次健バージョン、のつもり。
敵対する組織に属する二人、ロミジュリ、駆け落ちまがい、やたらと雨が降ったり月の描写が多い、ほおら一緒だっ ───いいです笑って下さい。




以下、時代設定補足とか、発行当時は「こんなんでページ取ったらウザいわ!」で我慢した裏話(笑)とか、とかとか。

設定は上野の戦争の爪痕がまだ色濃く残る明治初期、若島津は元御家人の家の次男(佐幕派)、日向は薩摩系の家の出身(薩長派)、ほぉら敵対する組織の、──もういい。
日向に薩摩訛りがないのは江戸詰めの家の出身で、でも訛ろうと思えば訛れるハズ(笑) 同郷の人と喋ってない限りはほとんど江戸弁、なので密偵として重宝されちゃったりしていたようです。
上野戦争や新門の大親分(新門辰五郎)の下りは一応史実。若島津のお兄さんはつまり彰義隊に参加してしまったわけですね。
当時上野にあった寛永寺(元)はこの内戦で大部分を焼失、門がかろうじて焼け残り、現在は円通寺に移築されて通称「黒門」と呼ばれていますが、その焦げ痕とおびただしい被弾痕が激戦の様子を今に物語ります。上野公園をふらふらすると、関連史跡が意外と色々あるのに驚かされます。慰霊碑や跡地説明、変わったものでは焼け落ちた大仏の頭部だけなんてものも。賑わう今の上野公園の姿からは、当時の惨さを想像するのは困難です。
日向の叔父さんは田原坂で亡くなっているらしいので(日向は多分、この叔父さんに実の親よりなついていた)、西南の役で西郷さんと一緒に散ったという事に。ガチで若島津とは相容れないお家筋。
そしてそんな西郷さんの銅像が上野にあるのは(めっちゃ近くに彰義隊の慰霊碑もある。確か裏手)何か…何かなあ。平和の印というより軽く嫌がらせだったのではと、建てた時期的に思っちゃうのでした。

ちなみに日向の言う「お上がここら一体を取り壊して」とは、この上野公園を作るための事業を指します。て事は、明治5年よりは前の話な事が決定か。 ……ここまで書いて本当にたった今思い出したのですが、旧暦新暦を切り替えたのって、政府発布なので明確に何時からか分かっていて、明治5年末なんですよね。(念のため確認したので確か) あ、あちゃー。そこ直したほうがいいのかな。でも文中に「旧暦」って入れないと混乱しちゃうので、……えぇいそのままで! 言い訳。

ついでに付け足すと、タケシを書いたのは実は初めてだったかもしれません。(分かんないけど。多分) 日向になついてないタケシ。ひたすらトンガってる若造です。これはこれで何でだか割と気に入ってたりして。

 

 

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