《1》  


 あの頃、一日は長くて夏休みはあっという間で、世界は狭くて道はどこまでもどこまでも続いていて、そんなパラドックス的な一つ一つが、何の矛盾もなく存在していた。
 空は高くて星は近くて、宇宙もキョウリュウもマカフシギも、みんな身近なものだった、あの頃。






「…やっばいよぉ」
 隣で膝を抱えて座っていたチームメイトの沢木が、ぼやくように呟いた。健はフィールドから目を離さず、「うん」とだけ頷いた。
 戦況はどう見ても不利だった。いっそ気持ちいいほどに不利だった。点こそまだどちらのチームも入っていなかったが、自分のチームのディフェンスラインが、ガタガタなのは子供の目にも明らかだった。
 ───開始、一○分かそこいらだったにも関わらず。
「あー、マジでやっばー! カントクすっげ怒ってる!」
 言われて、沢木の向こうに首を伸ばす。せっかく今日は呑んでいなかったはずなのに、監督は足許の一升ビンを、ガッと掴み直したところだった。それでも、そんな光景はこちらとしては慣れたものとも言えるのだが、背後の相手チームの父母席からは、ひそひそ話がさざ波のように伝わってきた。
 あー、また練習用の対戦相手を減らしたかな。
 大人びた表情で健は考え込んだ。カントク、オレらは大好きだけど、酒呑みだったとしても凄ぇカントクなのには全然変わりがないけど、大人ってそういう見方をしないからな。
 『ジョーシキ』がある大人は、昼間っから酒ビン抱え込んだりする人間を、それだけで『サベツ』したり『ミクダシ』ちゃったりするものなのだ。自分の『ジョーシキ』ってものに照らし合わせて、他人を外見だけであっさり区別を付けちゃうのだ。
 最近、健少年はそこんとこが妙に気になって仕方がなかった。一つ、世界の謎が増えた気持ちがした。そこで試しに自分も小汚い格好をしたみたら、これがまぁ見事に周囲に影響を及ぼした。
 まず、アネキがため息ついて苦笑した。次に母親が口許を覆って派手に嘆いた。そして案の定、───親父は烈火のごとく怒り狂った。
 何だその格好は。みっともない。どこの浮浪児だ。恥さらし者が。
 罵声は延々と続きそうで、この時、健は生まれて初めての態度を父親に取った。つまり、ぷいと無視して立ち去るという。
 我ながらそんな真似を出来た自分にびっくりした。彼にとって父親というのは絶対者で、絶対者というのは逆らってはいけない人のことで、要は世界のド真ん中で采配をふるう人のことだった。その人が「飯が柔らか過ぎる」と怒れば急いで家政婦さんは米を炊き直さねばならないし、その人が「下らない番組だ」と言えばテレビのチャンネルはすぐさま他番組へと変えられる。
 家、という名の狭くて、だけど子供には世界の基盤を占める場所の王様は、紛れも無くあの父親であったのだ。
 ───だけどもさ。
 だけども、最近は思うのだ。世界はそれだけじゃ無いんじゃないかって。もっと他の凄く凄く広い場所に、自分の王様は居るんじゃないかって。…そしてもしかしたら、いつかは自分も王様になれるのかなって。
 なろうと思えば何にだってなれる気がした。それは『可能性』という言葉と同義語だと、まだ幼い彼は知らなかった。
 ただ、こんなことを考え始めたのが、たった今フィールドで走り回っている、あの目付きの悪い同学年のヤツのせいなのかもしれないなと。
 それだけは薄々に健も理解していた。幼い視点ながらも世界は様相を変えつつあった。もっと熱くて、逞しくて、ギラギラとした光線の射す極彩色の世界へと。灼け付きそうに胸を焦がす、灼熱の太陽を中心とした宇宙へと。
 物心つく前からやっていた空手の中で、健はそんな気持ちを感じたことはこれまで無かった。もちろん、空手だって嫌いじゃない。親に強制されてやっているとも思っていない。
 なまじ自分に才能があるのを知っているから、誉められるのは好きだった。そりゃ誉められるばっかりではいられないけど、負けて落ち込む時だってあるけれど、その後の鍛練と訓練の積み重ね次第、ストレートに結果が出るのは小気味よくさえ感じられた。
 勝ちゃ嬉しいし、負ければ悔しい。出来によっては、父親に誉められれば尚嬉しい。
 だけどそれは言ってしまえば、学校のプリントテストと変わりはなかった。通信簿を学期末に持ち帰る気分と大差は無かった。
 でもサッカーは、違う。多分、何かが、ハッキリと違う。
 健は最初にこのチームを見た時からそう思った。
 始まりは2年生の夏休み後だった。放課後、急に付き合いの悪くなった友達に不平を言ったら、「おもしれーこと、始めたんだ」とやけに自信のある顔で返された時はちょっぴり寂しくなった。友達が勝手に先を歩いて行ってしまったような気持ちになった。それから、ことあるごとに「見に来い、見に来い」と言われていた理由は、初めてその練習を見学に行った日に分かった気がした。
 泥だらけで、怒鳴りながら、みんなが夕暮れの河原で走り回る姿は羨ましいを通り越して妬ましかった。友達がいつもとまったく違う顔をしているのも驚いた。
 あんな荒っぽいこと、するヤツだったなんて。
 忘れられない光景だった。そうして、忘れられなくなった奴が居た。走って走って走りまくって、容赦のないゲキを飛ばす目付きの悪い少年が。後で聞いたら、別にそいつがキャプテンでも何でもなかったのでまた驚いた。なんだ、随分偉そうにみんなに喋る奴だなァ、と。
 誰かに自慢したいのでも、誰かに誉められたくてやるのでも、きっとない。
 そういうことって、もしかしてある。
 自分だけに大事なお星様が。
 母親をまず時間をかけて懐柔して、それから父親の説得の片棒担がせ(この辺りはアネキのアドバイスで下工作した)、健がそのサッカーチームに所属が叶ったのは、今年に入ってからのことだった。幼心にも『やっと』辿り着いた場所なのだった。
 ───なのにさ。
 入ったばかりだから、レギュラーになれないのは仕方がない。まだルールも頭に全部入った自信もない。(小学生限定ルールとか、やっぱ細かいのがゴチャゴチャゴチャゴチャあるわけよ!)
 でも、だけど。これって…さァ。
 フィールド上では、アバウトでまともにラインになっていなかったディフェンス陣が、ついに派手に振り切られた。敵FWとMFの連係の、でも簡単なフェイントでぶっち切られた。

NOVELS TOP《《  》》next page