《2》  


「あーッ」
 沢木が中腰になって叫びを上げた。
 フリーで敵FWが味方ゴールに迫っている。足が速い。誰もあのFWには追いつけない、…と健が思った途端、異様な勢いでそのFWにスライディングをかけるヤツがいる。それが誰だか気付いた時、健と一緒に沢木も「げ!」と横でのけぞった。
 味方チームのFW、3年生で唯一のレギュラーポジションを獲得している日向少年。彼がさっきまでのワントップの前線位置から、凄まじい速さで駆け戻って来てのフォローだった。
「はっ…えェ! カッチョえー!!」
「あ、でも今の、」
 健が言い終わるより先に、審判の笛がピッ、と短く鳴った。続いて出される黄色いカード。思いっきり反則を取られ、日向少年は転がった姿勢のまま悔しそうに顔を歪めた。
 位置的にこれはPKかFKか、かなりギリギリの場所だった。いや、こちらからはほんの少し、ラインの手前の位置にも見えた。
 だが、やがて審判は他のメンバーに下がるように指示を出す。つまりはPKに決定ということだ。
 不満を言うより、沢木は鼻から抜けるような息で肩を落とした。健もそこで慌てて自軍キーパーを見たが、頼りのはずの5年生の正キーパーの表情は、緊張と敗北感で見るも無惨に強張っていた。
 あ、ダメだ。今からそんな顔してちゃダメなんだってば。
 もし彼の傍に立つことが可能なら、健はそう声をかけてやりたかった。空手と一緒だ。一対一の勝負の時に、あんな気持ちになったらそれは既に負けを認めたことなのだ。勝負ってのは大概がそうやって決まるのだ。
 せめてヤツから一言かけてはくれないだろかと、健は日向の方を伺い見た。なのに日向は。
 ───日向少年は、PKの結果も見届けず、くるりとゴールに背を向けていた。その態度に味方のディフェンスがムッとするのも目に入った。でもそれ以外のことも。
 背を向け、自分の本来のポジションに戻って行こうとする日向の口許が、きつくきつく食いしばられていることも。彼が今、悔しさと憤りで、おそらくはち切れそうになっていることも。
「ひゅうが……」
 ワッと、健たちの後ろで見ていた父兄が湧いた。ゴール前では、綺麗にネットを揺らしたあのFWが、カッコつけて腕を振り上げたところだった。
 
 
 あとはもう散々な試合だった。日向が個人プレイで1点返すのが精一杯で、相手チームはパス回しは大雑把ながらも(いや、小学生同士だからさ…)、堅実に確実に得点を重ねていった。後半戦終了後、すごすごと引き上げて来た教え子達に、カントクは「解散」とぶっきらぼうに言っただけだった。
「も、ひっでー!」
 陽気なんだか脳天気なんだか、帰って来た日向に大声で言ったのはやっぱり沢木で、「日向さん、一人だけじゃんか。ガンバッてたの」と周囲を全然気にしてない発言をまき散らした。
 それを聞いた上級生が面白かろうはずもなく、サブキャプテンを務める5年生が、近寄って来て、ドン、といきなり沢木を突き飛ばした。
「な…、にすんだよッ!!」
「バッカヤロォ! 日向のせいじゃんかよ!!」
 こけつつも必死に立ち直った沢木に向かい、仁王立ちで5年生は居丈高に怒鳴りつけた。
「日向が、こいつが最初にPK取られたからだろ! あれでウチのチームがむちゃくちゃになったんじゃねーかッ!」
「ちっがうね! その前っからムチャクチャだったッ 日向さんが戻ってフォローしなかったら、あそこでゼッテー点入ってたよ!」
「てっめェ、先輩に口応えすんのかよ!」
「先輩ったって、あんたら強くねーじゃんか! 日向さんよりゼンゼン弱っちーじゃんか!」
 二人の声は際限なく大きさを増していく。
 しかし当の日向に対しては視線を合わせず、沢木に当たり散らしている5年生の態度はヘンだった。おまけに、日向本人が面倒臭そうにそっぽを向いているのも奇妙ではあった。にしても正直、うっとーしいなとは健も思った。こんな言い合い、それこそ「ゼンゼン」無意味には違いない。
 もうヤめとけよと、沢木の服の裾を引っ張りかける。遠巻きにしている他のメンバーの視線も気になった。
 その時、5年生の腕が振り上がったのが視界に入った。固く拳が握られているのがハッキリ見えた。
 とっさに健はそれが下ろされる前に相手の懐に飛び込んで、下から自分の肘で跳ね上げていた。
「イッ!、………、」
 予想していなかったこの打撃に、瞬間、5年生は痛みで声もまともに出せなかった。腕を抱えてうずくまりかける。
 ヤバ、やり過ぎたかな。ちらっと思ったが、健は顔色を変えずに5年生を見返した。
「カンタンに、暴力ふるわないで下さい、『センパイ』」
 5年生と3年生では体格差はかなりある。だが意地だけで睨んでくる目は、明らかに相手の方が怯んでいるのを伝えていた。
「…ンのやろう…」
 真っ赤な顔で5年生は後に続けるべき罵声を必死に考えているようだった。しかし結局、怯みに任せて後ずさった。そうして幸い、誰も彼に加担しようとはしなかった。
 健が空手の段持ちなのは皆知っている。家が空手道場なのも噂として広まっている。もちろん、ご披露したことはないにしても。
「やめとこーよ」
 ダメ押しで健は5年生をすうっと見上げた。
「じゃないとアッタマ悪ィよ。こーいうの」
「──…お前っ、お前な…っ」
「……」
「ぜ、絶対レギュラーになんか、なれねえからな…ッ オレが、そんなん許さないからなっ」
 しまいにはよく分かんないことを捨て台詞に、5年生はもの凄い形相で仲間のところに戻って行った。
「決めんのお前らじゃねーっての。カントクだっての」
 その背中に舌を出して、沢木は嬉しそうに健の方へ向き直った。
「サンキュ!、若島津! やっぱすげーな、カッコいー」
 はしゃいでいる沢木には悪かったが、健はため息で土の地面を踵で蹴った。
「でも、あれ以上になったらオレ逃げたからな」
「ええッ 何それっ!」
「だって素人相手に技出せねぇもん。バレたら親父にコロされちゃうよ」
 ふうん、と納得いかないように沢木は首をかしげた。
「自分がやられそうでも?」
「自分でも。だから近寄んない、あーいうのには」
「───…本当に強いってのは、」
 突然、それまで仏頂面で黙り込んでいた日向が呟いた。
「そういう、ことだろ」
「え?」
「強いやつは、自分が強い強いって言わねーんだ。…だって、ちゃんと強ぇんだから」

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