【2】

 
 
「こいつは少し…すごーく、変わってるんだ。昔からそうなんだ。お前の単細胞のノーミソで理解するのは不可能だ。おまけにな、悪気も邪気もたっぷりあるんだ。顔がいい分、性格もかなりイイんだ」
「…反町、誉めてないよ」
「どうして俺がお前を誉めなきゃいけないんだ?!」
 叫んでおいて、反町はアペリティブの注がれたグラスを片手に、ぐずぐずと椅子に崩れ沈んだ。
「カズさん…っ?」
「訊くな、…もう何も訊かないでくれ。俺が悪かった、お前を連れてくるべきじゃ無かったかもしれん…」
「おっかしーな、もう酔ってんですか? それとも来る前に飲んできました?」
 日向が慌てて肩を揺さぶり返していると、向かいの席で黙っていた若島津氏は、すっと顎の下で両手を組み合わせた。
「反町くん。…あなたさ、あんまり駄々こねてると」
 ここで日向に向けられていた『にこにこ』から、『フフフ』へ笑みが変換される。
「──僕、旧悪色々と喋ってしまうよ」
 根が、お喋りなんだから。
 ねえ?、といきなり会話を振られても日向は困る。困ったあげくに反町を窺うと、彼はシャキーンと背筋を張り直していた。
「この店いいなあ!、お前よく来るの?」
「よくでもない、たまにだね。そう、日向くんの料理の選択は正解だ。ここのスズキ料理とホワイトソースは絶品なんです」
 はー、あれスズキだったんですか。横文字(しかも英語ではない)で書いてあったから判んなかった。昨日は肉食ったからじゃあ今日は魚かなって、そんなもん。
 若島津氏の目元口元には再度『にこにこ』が復活していた。少々わざとらしい気がしないでもないが、横の先輩も快活ないつものノリで、マッハの速度の舌を行使し始める。
 ヘンな人達。いいけどさ。
 深くは追及すまいと日向は心に決めた。しても実が無さそうだと本能的に悟ってもいた。
 やがて、そんな日向の保身を知ってか知らずか、会話は景気よく方向転換してこちらにぶつかってくる。いやさ、そのためにお会いしてんだから当然か。
 だけどテキトーに相槌、ボソボソと受け答え。面倒なのと本来の性質(の方が大きかったりして)で、殆どの仕切りを反町に任せていると、お前もなんか喋れというようにテーブルの下で足を蹴られてしまった。
「イテッ、えっとその、えー…。そうだ、オレ不思議だったんです。どうしてわざわざオレ、なんでしょうか」
「うーん。雑誌をね、見たんです。サッカー雑誌ではなく一般誌で。確か『プレミアム』、サッカーに限らず若手スポーツ選手特集でしたね。日向くんは巻頭で特集を組まれていた」
「ああ、プレミアムね。あれ見たのか」
 反町は言って、ギャルソンから出された籠のパンに手を伸ばした。なるほど、パン。オレも取るのか。好きなの勝手に選んでいいらしい、ふむ……。
「そう言や日向、先月表紙だったな」
「はあ」
 そんな名前の雑誌に取材された記憶だけなら、かろうじて日向にも残っていた。なかなか渋めの雑誌で、他にもユース選手が何人か載る予定だからと、広報さんに説得されて受けたんだった。練習風景なんかもカメラマン同伴で撮りに来てて、──表紙? そうだったかな、自分の載った本なんて見返さないから覚えてない。
 礼を言うべきなんでしょうか。こういう場合はどう対処するのが正しいんだろう。見てくれたんだったら、ここはありがとうくらいは言っておいた方が無難かな。
 迷ったあげくに、日向は一見ぶっきらぼうに言葉を述べた。
「…いえいえ、ところがお恥ずかしいことに、僕はまったくそちら関係に無知だったから、あれで初めて日向くんを認識したんですよ。で、是非とも間近で拝見したくなってしまって」
 若島津氏と反町先輩の会話と、広報室の平泉さんから聞いていた話を総合すると、それで若島津氏が自分を見初めて(他に言い様が…)対談相手に指名して下さったものらしい。初めて知ったことだが、彼は週刊誌に各界著名人との対談コーナーを持っていた。
 だがこの企画は日向に伝わる以前であえなく潰える。なんたって即答で広報室は断わったのだからして。
「反町の名前出すのに、記憶の総ざらいが必要だったよ。プロになったっていうのは聞いてたんだけど、彼と同じチームだったというのは本当に嬉しい誤算」
 悲しくもある、と小さく呟かれた反町の声は、日向は聞かなかったことにしておいた。
 さて、その間にも料理のサーヴは順当に流れる。
 スープは取り敢えずクリアした。だってスプーンはこれしか無かったからな。しかし続いて出たお上品で派手こいサラダらしき皿を前にして、どこから手をつけていいのかとうろたえる。一体全体、このナイフとフォークの数はなんなのだ? まさかこれ全部使って食うんだろうか?
 そこで「外、外からだよ」とのありがたい先輩の耳打ちに、日向は目当てのナイフとフォークをなんとか握った。
「お味、どうですか」
「味は旨…美味しいです。なんか、緊張しちゃって鈍くなってるかもしれませんけど」
 声を上げて笑ってから、若島津氏は真面目な顔で「これも社会勉強ですよ」と言い添えた。
「うーん、確かにこりゃ問題だよなあ。俺もここまでお前が物知らずとは思わなかった。この先苦労すっぞー、幾らだってこういう機会はあるんだから」
「そっ、…そーなんですか? ヤバイな、やっぱマナー本とか買った方がいいのかな」
 結構本気の発言のつもりだったが、案外と若島津氏の言葉は冷たかった。
「そんな本、ものの役には立ちませんよ。実地が何より一番でしょう。特に君みたいな人にはね」
「実地、…ですか」
 複雑な顔で返してしまう。そりゃあ自分が実戦タイプだとは認識あるけれど。こればっかりは。打ち死に覚悟ってわけにもいかないし。
「あのオレ、…ほんと言うとスーツも一着も持ってないんです。買わなきゃ買わなきゃとは思ってるんですけど、なんかどーも気後れするっつーか。こんな店、連れて来てもらったのも初めてで、…この服もやっぱマズいんすよね?」
「んー、どうかな」
 ワイングラスをくるりと揺らして、若島津氏は残り少なかった一杯を飲み干した。すぐにギャルソンがやって来て、脇の銀製のクーラーからボトルを引き抜いて注ぎ足す。
「ああ、ありがとう。──…要はね、日向くん。礼儀を逸してなければいいんです。反町、だよね?」
「ま、そだね。フルフォーマルを強要し過ぎる店は俺もどうかと思うよ」
「ここはどちらかと言えば、それほど堅い店じゃないんですよ。ほら僕だってループタイだし、反町にしたってノータイでしょう。これはフォーマルの判断基準としては失格の部類。バブルのあと、あんまり格調高い店は難しくなっちゃったんだね。でも、だからと言って本物のお店が消えてしまったのでは決してない。そういう店はきちんとした常連がいて、そしてきちんとクオリティを保ってきてる。それが本物ってことだと僕は思う」
 若島津氏はそこで言葉を切り、グラスをまるで何か眩しいものみたいにそっと見つめた。
「だから、むしろ僕自身は今の状況を歓迎してますよ。客が冷静に店を選べるような状況をね。──本やマスコミを鵜呑みにするんじゃなく、自分の目と舌で選ばなきゃいけない」
 良かったら、とここで不意に優しい視線が日向を射る。
「…良かったら、今度はそういうお店にも招待させて下さい。こんなことでなら、僕は君のお役に立てそうだ」
 ペコ、と日向は頭を下げた。なんだか不思議に感銘も受けていた。
 凄えなー。哲学だなー。ゲージュツやってる人はなんか違うよなー。
「おい、日向。その程度だったら俺にだって一家言あるぞ」
「そ…、うすか?」
「あるさ。俺は食い意地だけは張ってんだからな。全てはそこから始まるんだ」
 反町のこの科白はもっともだったが、途端にレベルが庶民的になる。納得したくない顔の日向に、反町は大袈裟に溜息をついた。
「甘いね、ボーズ。若島津の説得力ってのは、顔と雰囲気で相手を呑んでる部分が大きいんだぞ。俺が一言一句同じこと言ったって、お前、どうせ素直に聞きゃしないぜ」
「そっ、──」
 それは、…ひょっとしてあるかもしんない。
 パンを喉に詰まらせた日向を横目に、「仁徳のハナシなんじゃない?」と若島津氏は澄まして言った。
「いるよねえ…、何言っても有難みの薄い人」
「悪うござんしたよ。どうせ仁徳薄いよ、俺は」
「そこまでは言ってない」
「そこって、近場まで来ただろう、今!」
 この人ら、仲悪いんだかいいんだかなあ。
 日向が呆れて見てると、反町は咳払いを一つして膝のナプキンをかけ直した。何かと思ったら、いつの間にか気配も感じさせず横にギャルソンが立っていた。
 その洗練された手により各々の前へ、メインの皿が美しくも豪奢に並べられる。それにしてもびっくり、内容と比べて皿がでっけー。この無駄さがいわゆる一つのステイタス、か?
「……日向。お前、羊を選ばなかったのだけは誉めてやるよ」
「羊? なんでですか?」
「まず、お前のナイフ捌きじゃ食えないからさ」
 ひつじ。羊って言うとジンギスカンしか思い浮かばない。ほらと、こっそり反町が顎で示した先では、若島津氏がややこしそうな骨と肉を皿の上で切り別けていた。
 ──あれか!、なんだあれは、どーなってんだ。
 一見してしごく優雅、しかしとても真似できないようなナイフ捌きだ。この日向と反町のやり取りは聞こえなかったはずだが、ひきつっている青年の顔をチラリと見て、若島津氏はこれもまた優雅な微笑みを口元に浮かべた。
 
 
 
 こんなに気を遣って飯食ったのは、きっと生まれてこのかた初めての経験だった。契約前、うちのチームの監督と最初に食った飯の時より緊張した。(ちなみにその時は焼肉でした)
 店の出口付近で、備え付けの椅子に日向がぐったり埋まっていると、飽きもせずモメながらセンパイと芸術家氏が歩いて来る。
「だから僕に持たせてくれよ。こっちが頼んで呼び出したんだぞ」
「嫌だね、お前に借りを作っときたかない」
「失礼な奴だな、それを僕が盾に持つとでも?」
「お言葉を返すようだが、じゃあ持たないとでも?」
 どうやら今日の食事代の件らしい。オレが持ちますと割って入るのもおかしいので、日向は黙って成り行きを窺っていた。そうしてついに反町が勝利を収め(と言うのは、席についてる間にギャルソンに既にキャッシュカードを渡していた)、若島津氏は本気で悔しそうに引き下がる。
「いいよ。この穴埋めは彼にしてもらうから」
「穴埋めって、アンタそれ逆でしょうが…。そうだ、日向は? ──あ、いたいた」
 いましたとも、さっきから。
 笑いながら腰を上げたら、反町に拳で背中をどつかれてしまった。
 上着も預けていなかったので、そのまま三人してキャッシャーの前はスルーする。ギャルソンにご丁寧に送られ大通りへ出て、この後って結局どうすんのかな、と日向は国道の車の行き来を見ながら考えた。



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