【3】

 

 夏時間、明るい内の予約だったので、時間的に言えばかなり早い。それに『会うだけ』と念を押して来はしたが、本当にこれだけで帰っていいのものかどうかも悩むところだ。でも飲みに誘われたって明日練習あるし、オレ一応はまだ未成年だしなあ。
 先輩が音頭を取ってくんないかな。思って、後ろにいるはずの反町を振り返りかけると、いきなりグイとその腕を掴み取られた。
「──うぉっ」
「反町、このまま彼をちょっと貸して。大丈夫、へんなことしないから」
「いやー、俺のじゃねえもん。好きにすれば?」
「ちょ、カズさんッ ええ?!」
 叫ぶ日向を全く無視して会話が続く。
「君ら明日って早いの? 時間的にはどんなものかな」
「午前中から練習は入ってるよ。けど、徹夜でこき使ったりしなけりゃ問題ないだろ」
 慌てふためいている内に、若島津氏はさっさと右手を挙げてタクシーを一台停めた。反町の許可は取るのに、なぜ本人の許可は取らないのかが尋常じゃない。
「ま、待って下さい…っ 何すんですか、どこ行くんですかっ」
 タクシーに押し込まれ、ちょっとおッ、と車内から振り返って助けを求めるのに、反町はと見ればバイバイとにこやかに手を振っていた。それどころかジェスチャーで、『お前の・隣りのヒトは・アタマのココどっかが一本・飛んでるからな』を伝えてくる。
 うわああっ
 声にならない日向の悲鳴も乗せて、タクシーは静かに発車した。「どちらへ?」とのタクシーの運ちゃんの問に、若島津氏は日向も聞き覚えのある、某有名ホテルの名を告げた。
 オレの身に、イッタイ何事が起きてんだッ?
 さっき腹一杯食ったものを、日向はパニックのあまり全部吐き出しそうだった。窓ガラスに手をついて懸命にこらえていると、隣り座席では楽しそうに鼻歌なんか歌われたりして。
「すぐ着くから。大丈夫、大丈夫、怖くない」
 超怖いっスよ。この状況でさらわれたら普通怖いって。
 けれど一つは真実であった証拠に、タクシーは目的の建物まで、意外とすぐに到着した。エントランスで引きずられるように車を降りて、地下へのエレベーターに放り込まれる。
 注釈として付け加えるなら、日向の方が彼より無論デカい。一般の人と比べたって相当に身長はあるし、一目見てスポーツマンとは判るほどには体格も作ってある。なのに逆らえずに連れて来られちゃってるのは、ひとえにこの方の勢いとしか言い様がない。
 エレベーター内のフカフカ赤じゅうたんに、日向はともすればヘタり込みそうになる膝を叱咤した。さすがにここまで来て逃げ出そうとは思っていない。いないが、状況把握がまるで出来ないのも理不尽過ぎる。どーしたもんかと呻いていると、背中を、ザワッとくるような視線が這い上がってきた。
 ふ、振り返れない。
 もう一つ注釈つけると、このエレベーターには二人しか乗っていない。自分で自分の背中を見れない限り、この視線の主は必然的に一人しか。
「あの、……」
「──綺麗だねえ、君の筋肉。服の上からでも判るんだもの。惚々としてしまうなあ…」
 次の瞬間、日向はバッと身体を翻していた。と同時に、チン、と軽やかなベル音が鳴って、背中を押しつけたドアが左右に開く。
 あわや、背後へ頭から転げそうになった日向は、超人的な反射速度とパワーで踏み止まった。詳しく説明すれば、片足を引いて身体のバランスを取り、なおかつ逆手に両脇のトビラを鷲掴んで体重を支えたわけだ。
「うわあ…。凄いな、僕にはとても真似出来ない」
 あんまり、真似しない方が、いいと思います。
 息を切らせて立ち直った日向の横を、自分は何事も無かったように若島津氏はすり抜けた。ぶつぶつと独り言(なんだろう、きっと)を呟き、腕の時計に視線を走らせる。
「八時過ぎか…間に合うかな。電話を入れておいた方が良かったかな…?」
 何がですかと、尋ねる気力は日向はとうに尽きていた。
 おいでおいでと手招かれるまま廊下を進んで行くと、この階はどうやら全て店舗で占められていることが判ってくる。外国人向けの和風恭しい絵葉書やガイドブックが硝子越しに見えたり、中にはいきなり壷だの掛け軸だのを売ってる店もある。ふへえ、と感心して覗き込みつつ後に続いて、やがて目的地らしき場所に辿り着く。
 ブティックらしき店が集まっている一角で、若島津氏は中の一店に近付き、しゃれた仕草でコンコンと通路に面するショウケースを叩いた。中に居た一人の女性がその音にこちらを向き、ふっと笑みを浮かべて会釈を返す。
「お久し振りです。まあ、近頃おいでにならないから、ご趣味が変わっちゃったのかしらってお噂してたんですよ」
「ひどいな、そんなわけ無いでしょう。出無精の人間をいじめちゃいけない。それより…今日はもう終わりかな? 出直して来た方が無難ですか」
「いえいえ、とんでもない! 結構ですよ、先生がおいで下さるなら喩え夜中でしょうとも」
 どこまで本気かコロコロと笑い、ワードロープご覧になります?、と彼女はお客に奥を示してみせる。
 入り口のガラスのとこに突っ立ち、自分はどうすりゃいいのかと日向が困っていると、若島津氏は思い出したように肩半分で振り向いた。パタパタと、手が上下に揺れて差し招かれる。
「日向くん、入って来て。──…ね、ケイコさん。今日は僕の服じゃないんですよ。こちらの人に、スーツを一揃えお願いしたいんだ」
 あわわわ、そういう話だったんですか!
 日向がオタオタしている間に、ケイコさんとやらはくるりと日向の周りを一周し、「そうですねえ」と感慨深そうに頷いた。
「綺麗なスタイルですねえ。あ、あちらの血が入ってらっしゃるとか?」
「は? いえっ、純日本産ですが…」
「まあ、体格良くてらっしゃいますから、殆どお直ししなくてもいけそうですね」
「でしょう?」
 何が嬉しいんだか、『にこにこ』と若島津氏は店内の皮張りのソファに腰を下ろした。
「あの表のマネキンが着てるの、あんな色がいいんじゃないかな? カーキ色じゃなくて、そっちのグリーンの。彼、色黒でしょう、あんまりボヤけた色はどうかと思うんだ。そうだね、形はシンプルなのをね。うん、試しに色違いもあったら出してみて」
 人が反応鈍くなっているのをいいことに、状況が好き勝手に進んでいく。二、三着をぐいぐいと鏡の前で押し付けられたり、試着室に閉じ込められたりしていると、もう日向も億劫になって考えるのを放棄した。
「足元はタップリしたタイプの方がよろしいですね。…意外と腿回りが…ああ、スポーツ、水泳か何かやってらっしゃいます?」
「ケイコさん。彼、プロですよ。プロのサッカー選手。失礼なこと言っちゃいけないな」
「あらまあ、申し訳ありません。え、って…ホントだわ、お顔拝見したことあります! この間のお正月に優勝なさったチームの方でしょ? ねえ、違います?! うちねえ、他にもサッカー選手の方よくおいでになるんですよォ」
 何々さんとか、何々さんとか。
 聞く名前は、全日本クラスの選手の名だった。こんなとこでみんな服買うのかー、キョロキョロと改めて周囲を見渡し、日向はどっかで見たようなロゴを見つけて首をひねる。
「どう? 日向くん、それと今のとどっちがいい?」
「どっちって訊かれても……。お任せします…」
「ほんとに? じゃあ僕が全部選んでしまうから後で文句はナシね。ケイコさん、ネクタイ見せて。…それはねえ…ちょっと地味過ぎるんじゃないかな。彼若いし。うん、そっちとあとそのケースのと、もう一本場合によってはシックなのが欲しいかな…」
 あれよあれよと言う間に、ネクタイ三本とシャツ二枚、タイピンが二つに靴が一足。目まぐるしく選んで頂いて、シャツとスーツ以外はその場で包んで渡された。
「──お直しに一週間ほど頂きましてですね、お引き取り可能の日時はこちらになります。おいでになります?、それともお届けの方がよろしいでしょうか」
「届けて下さい」
 訊かれた本人より先に答えて、ハイと彼は胸ポケットから万年筆を取り出して日向に渡した。反対側からはこれは店員さんの手より、ハイと届け先用ノートが渡される。
 日向は素直に、カウンターに屈み込んでクラブ寮の住所を書き込んだ。その間に囁き声が後ろで交わされ、店員さんは店の奥へと一旦入って行った。
「ん、書けた?」
「これ部屋番まで入れた方がいいですよね、…入れとこ」
 値段のことは、この時の日向は綺麗さっぱり考えていなかった。戻って来た店員さんが、銀のトレーに乗った紙切れとカードを若島津氏に差し戻してから、初めて『お支払い』という現実感と直面した。
「あれ、…え? この服って、」
「僕から君に。今日、お付き合い頂いたお礼です」
 返されたカードを革財布にしまい入れ、若島津氏はさも大したことではないと言ったふうに頷いた。
「さっきは反町のやつに押し切られちゃったからね、これくらいはしたいわけです。僕の…そうですね、ご道楽」
 雰囲気に呑まれまくっていた日向は、そっかー、と思いきりよく納得してしまった。ついでに、ちょっとこの人のオレを見る眼が怖いよな、とかいうのもあさっての方向にやっておく。
「あー…、ありがとうございます。──今度、こういう機会があったらちゃんと着ます」
「似合うでしょうね、楽しみだ」
 想像してか、若島津氏は眼を細めて上から下から日向を眺め、ふわふわと楽しそうに笑みをこぼした。
「こんなに刺激的なの久し振り。マズいよねえ。僕は正直言ってクラクラしてます」
「し…っ、刺激的、ですか?」
「そう。聖処女に誘惑される神父って、きっとこんな気持ちなんだろうなあ」
 日向はとっさに、ケイコサンがこっちを見てなかったのを、視界の端で確認していた。うわ、冗談に聞こえない、メチャクチャ怖ぇ。
 それでもホッとしたのは、彼が雑誌の対談の件をぶり返さなかったことだろうか。だって断われないじゃん、特にこの状況の後ともなれば。
 タクシーで送るとのお言葉はプルプルと首振ってご辞退申し上げて、日向は駅への道順を店じまい中の彼女に尋ねた(慌てなくてもよかった、地下鉄の駅はホテルの真ん前だった)。若島津氏は非常に残念そうなご様子だったが、情けないことに本気で身の危険を感じた自分がいたりして。
「じゃあ僕はここで。──日向くんのこれからのご活躍楽しみにしてます。心から」
「どうも…そんな、若島津さんこそ。今日は、ホントにありがとうございました」
 そっ気なさ過ぎなかったかと心配しながら、雰囲気のまま、最後にもう一度出された右手を握り合わせる。
 酒が入っても若島津氏の掌は温度が低かった。
 離れる瞬間、彼はキュッと指先に僅かな力を込め直した。視線は手元。惜しむようにひそめた眉と合わせて、それはなんとも絶妙のタイミングだった。日向の心拍数を煽るには充分な、けれどもその分余計に不可解な一、二秒。
 何か言わなきゃいけない気がして、日向は口を半端に開いてまた閉じる。
 何を──?、お礼の言葉ならもう言った。何を、オレは言おうと思ったんだろ。
 別れの挨拶? そんな程度の?
「さよなら。…元気で」
 穏やかな微笑みを向けられ、だけど日向は無言の無愛想さで頭を下げることしか出来なかった。
 

 
 
 帰ってから、その後日向は真面目に彼のプロフィールに目を通した(失礼ながら、どうも今迄いい加減に読み飛ばしていたよーだ)。
 ゲイジュツカゲイジュツカと連呼してた割には、何を創ってらっしゃるんだかよく判ってなかった。絵だと朧気に認識してたが正確には違った。──ずばり、版画家。
 でも資料に『著作』なんて項目があるからには、執筆活動もマメと思える。タイトルからするとエッセイぽい。紀行もの、…と言うよりはライフスタイルもの?
 他にも陶芸や油絵にも手を染めてて、気が多いとでも言うんだろうか。で、こうなるとやっぱり作品が見たくなる。画集が出てるらしいので、試しに平泉さんに頼んでみたら、件の奥様は快く手持ちの本を貸して下さった。
 あー、結構アバンギャルド。


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