【4】

 

 なんかニューヨークでの凄い(らしい)賞を以前に獲ってて、日本でよりも海外での方が作品の評価は高いのだそうだ。うん、見るからにそんな感じ。いいとか悪いとかの判断は日向などには付きかねる。ただ先にご本人とお会いしちゃってるから言うと、漠然と日向がイメージしてたものより、随分とざっくりした雰囲気の色使いやラインだった。
 無駄を限界まで剃ぎ落として、人物もその影もあくまでシャープ。輪郭は女や男だとやっと判る程度で、服はもしかしてこれ、着てないのかもしれない。中には単なるカタチにしか見えないのもある。
 仕事場での近影がラストのページの方に入っていた。
 シャツの袖をまくり上げたスタイルに、なんとメガネをかけている。うつむき、作品の上に屈み込む形になったところを、カメラが斜め横から捕えた構図。モノクロ写真のせいか、ガラスの奥の瞳は厳しかった。
 ふうん。
 寮のベットで仰向けに寝っ転がり、こいつにしては珍しく1ページ1ページを丁寧に眺めた。この手のものに頓着してなかったせいもあるだろうけど、とにかくひたすら不思議な気がしていた。
 ──これが全部、あの人の中に在ったものなんだ。
 写生や風景画より不思議な感じ。あの人の世界はこんなふうにシャープなのかな、あの人の眼にはこうやってものが捉えられたりするんだろうか。
 無駄の無さ。原形質。
 あれ、今の言葉はどっから出たんだ。ああそうだ、三行ぐらいの後書きに書いてあった。僕はものの原形質を掴みたいんです、何よりそれを美しいと思う──。
 借り物の本を顔の上に、そのまま大胆にも日向は熟睡こいていた。見る夢は鮮やかな原色、シャープなライン、シャープな影。何かに似てると思う、何だっけな。こないだヘッドで決めた決勝点。ランキング・4位。カズさんからのパスのやつ。
 おお、あれは我ながらサイコーだった。あの瞬間が何より一番のオレにとっての明確さなんだ。削ぎ落とされた、全部の意味みたいなものなんだ。とゆーことはオレ、この人の創るもの好きなのかなー…。
 変な人。その感想は変える気ないけど、なんたってほら、ゲージュツカだし。視線のインパクトと現実味の薄い輪郭、あの指先に不意にこもった小さな力。
 オレの手の方がデカいのに、指先が綺麗に長いとあの時思った。なのに少しザラついた感触がしたのは、手仕事をする人の指だからか。子猫の舌ってあんな感じだっけ、…ってオレ連想があちこち飛びまくってる。睫の影、薄い唇、あこれ以上はちょっとヤベ──…。
 明け方近く、日向は何か叫んで飛び起きていた。大判サイズの厚い画集が、バサバサッと音を立てて床に滑った。
 ──ちょっとじゃねえよ! 
 もう全然、グチャグチャにヤバ過ぎる。
 あちゃーと呻いて、あのぉ赤裸々な話で恐縮ではございますが、寝ぼけマナコをこすって彼はトイレに行きました。だって男の子だもん、と笑って済ませられる余裕は今は微妙に本人にもない。
 絵のせいだ、この女の裸体(に決めた)のデッサン風の絵を見てたせい。そう無理矢理に納得して、日向は毛布を勢いよく被り直した。この場合、「眠い」ってのが大方の言い訳として採用される。
 くそ、何が何でももう一回眠ってやる。朝練まであと二時間。
 
 
 
 それから約一週間のち、またも自室のベットで雑誌をダラダラ読み耽っていた日向は、隣室者の乱暴な訪問に飛び起きた。
 とんでもない物がお前に来たぞというのがそのご報告で、頭をかきながら受け付けに行くと、予想通りに例のスーツとシャツが箱入りでドーンと届いていた。
 ひょいひょいと部屋に運び、あまり深く考えずに箱を紐といていたら、弥次馬が他にも続々と押し入ってくる。いきなり始まる大騒ぎの歓声、内の半分が感嘆、半分は疑いの声。ハンガーにかける間もなくわらわらとたかられまくる。
 「うるせえ」と怒鳴り散らそうとしたらば、逆に倍のやかましさで言い寄られた。いわく、これを一体どうしたんだと。
 一言で言や貰ったんだよ、他に形容のしようがありますか。そしたら罵倒・悲鳴・も一回歓声。ホストかてめぇ、とまで言われるに至って、ようやく日向も事態の異常さに気が付いた。待て待て、皆の衆よ、何がそんなに問題なのかを説明しろ。
 ああそう、日向ってこれの価値が判ってないの──
 価値って、だからスーツ一揃え。凄いとは思う。お礼状は書いとかなきゃな。
 うわ、サイアクぅ──
 マジで値段を知らねーんだ──
 我ながら辛抱強く日向は会話を重ね、あとに囁かれた金額を聞いてぶっ飛んだ。ええっ、だって洋服だよ?! たかが服一着。シャツが数枚。
 さ、…さんじゅうまん。
 その御名にして、あるまーに様(エンポリオじゃなくてジョルジオの方と思われます)。
 口を開けっ放しで固まっていると、ちなみにこれは最低ラインだぞと念を押された。靴とタイピンの基本的値段も恐る恐る訊いてみて、それも実は貰っただなんて、例え口が裂けても言えないと改めて思う。合計、どうソロバン弾いても五十万近いじゃねえか。通貨単位は『ペソ』じゃないよなとか、つまんないボケをかましたくなる。
 押し黙ったまま、速攻で全員を部屋から追い出し、日向は頭を抱え込む羽目に陥った。
 契約金だの年棒だの、そりゃあ一般的には高額所得者かもしんないよ。自分で税金計算なんてとても出来ずに、クラブ紹介の税理士さんにお願いしてるよ。
 でもね、これでも本人、ごくフツーの家庭で育ってきたつもりなんだ。もとい、どちらかと言えば…経済的には質素な部類の。
 五十万!
 ポンと人にやれる金額じゃない。そしてポンと受け取れる金額でもない。ああ、気が遠くなる。
 みみっちいと言われようと、これがこの青年の基本スタンスなのでご容赦願う。悩んだ結果、日向は一度ハンガーに吊しかけたスーツをまた箱にしまった。反町に電話しようかとも考えたが(寮ではなく先輩はマンション住い)、手にしたケータイで押した番号は別口だった。
 名刺をちゃんとホルダーに取っといて正解でした。
 流れた留守電は、日向が名乗ると途中から肉声に変わった。一言二言交して、それから壁のカレンダーに眼を走らせて、しどろもどろにお約束を取り付ける。
 短い、おそらく一分そこそこの電話なのに、切った途端にえらく大きな溜息が漏れた。その事実にも日向はガックリとくる。
 ヤだなあ、オレってこういう溜息つくタイプじゃないんだけどなあ──。
 
 
 
「申し訳ない、こんな所へお呼び立てして」
「いえ…」
 思ったより芸術家氏の仕事場は近かった。倉庫みたいな場所を勝手に想像してたが、洋館風の一軒家、それもかなり荒れた状態に所どころ手を入れてという感じの家だった。
 だからと言って貧相な雰囲気は微塵もない。多分、荒れてる箇所はそうしたくてほっとかれてるのだ。その証拠に玄関入ってすぐのホールなどは、きちんとモダンなカラーで統一されていた。
「元はねえ、誰かの別荘だったみたいだね。おもちゃみたいな家でしょう。あちこち僕も遊んでしまってるから、もう普通の人は住めないだろうな」
 靴は脱がないでいいとのこと。階段の古い手すりや、深い色のペルシャじゅうたんなどをもの珍しく日向が眺めていると、先回りするように彼が言った。
「ね、僕にしてはなかなか渋い家だと思わないか」
「ここに住んで…らっしゃるんですか?」
「日本にいる時は大抵ね。ホテルに長居は好きじゃないから」
 日向が意味を掴み損ねていると、ああ、と彼は頷き説明してくれた。
「僕の仕事の拠点は基本的にニューヨークなので、年間通すとあちらにいる方が多いんです。おかげで寝言は二か国語放送だそうですよ」
 寝言、ですか。
 それを聞いてる人がいるってことだよな、と日向は無意味な下世話さで緊張する。家がもの珍しいのは嘘じゃないが、まともに顔が見れないってのもあったりして。
 それでもまったく見てないわけじゃありません。玄関を開けて頂いた時は少しドキッとした。今日の彼はメガネをしていた。
 普通は逆のような気もするが、この人はメガネをかけた方が若く見える。元々年齢不詳な顔には学生っぽいムードまで漂うのだ。反町先輩と同期なんだったら、二十七、八は確実にいってるはずだ。反町にしたって若く見える点では引けを取らぬが、下手すりゃ日向とは一回り違うと思うと化け物じみてる。
 そういう都合が悪くなった時の駄目押しで、日向は「ま、ゲージュツカだから」と胸の内で二度ほど唱えた。
「今日は、何か僕がお役に立てる相談ごとでも? …と訊きたいところだけど──…」
 天井の高い居間(のような部屋)へ案内しながら、若島津氏はちらりと日向の抱えた荷物に視線をやる。
「それを見たら判ってしまったなぁ。あ、申し訳ない、そこら椅子の上のは適当にズラして座って下さい。踏みさえしなきゃ気にしないでいいから」
 読みかけの新聞や本が、部屋にはそれこそ二か国語分に氾濫していた。人を呼びつけた割には散らかっている。『汚れて』はいないが『散らかって』いる。または、さほど本人にそういう意識がないのだとも言える。仕事場兼だとすれば頷けないこともない(かもしれない)。
 逡巡したのち、日向は出窓下のソファに落ち着かせて頂くことにした。そこが一番被害が少ないように見えたからだ。
 やがて、いなくなったなと思っていたら、彼はコーヒーを二つマグカップに煎れて戻ってきた。
「君、砂糖使う人?」
「いえっ、…結構です」
「良かった! 自分が使わないものだから、料理用じゃない砂糖が見つからなかったんだ。そう恐縮しないでいいですよ、これだってホラ例のインスタント……そう、ここだけの話だけど、僕は本来、紅茶党なんだ。あんなの出るんじゃなかったと悔やんでます。一箱だよ!、こんなデカい箱に瓶がギッシリ一箱! そんなに貰ったって消費しきれるわけがない」
 馬鹿に陽気に喋って、若島津氏は立ったままコーヒーを一口すすった。そのポーズが、たまたまCMと同じ角度だったりして、緊張してたはずの日向までが笑ってしまった。
「君、そうやって笑うけどねえ…、僕だってあれはかなり恥ずかしいんですよ」
「そういうモンですか? カズさんなんて自分のコマーシャル見る度に喜んでる」
「あの男は別。そこいらのネジが一本足りないから」
 なんかお互いで似たようなこと言い合ってる。
 二人がどんな同級生だったか想像すると怖いなあ。苦笑混じりに考えた辺りで、日向は呑気にコーヒー飲んでる場合じゃないのを思い出した。忘れちゃいけない。今日の目的。言い出しにくいのを承知でここまで来たんだ。
「あの…っ、すいません。それで、今日ここまでお邪魔した理由なんですけど」
「はい」
 平静な彼を見ていると、きっと日向からの電話を受けた時点で、内容に見当がついてたんだろうなという感じがした。その柔らかい微笑に押されるように、日向は足元に置いておいた箱を持ち上げた。


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