【5】

 

 喫茶店で待ち合わせするよりは、直接にご訪問したかった最大の理由。
「これ、…やっぱりオレ頂けないです」
「なぜ?」
「軽率だったと、…思ってます。どのくらい高価なものかって、ちっともオレは判ってなかった。チームメイトに言われてびっくりしました、そんな、簡単に頂いていいものじゃなかったんだって」
 すいっと真顔で若島津氏は日向に近寄ってきた。
 怒られるのかな、ソファで日向はまた電柱のように固まりかける。しかしその次の彼の行動には、固まるどころか飛び上がりそうになった。
「君──、可愛いなあ」
 クシャ、と彼は日向の前髪に手を差し入れ、自分も屈んで日向と目線を合わせた。
「中身も素敵だ、もう予想以上。どうしよう、僕は久々に嬉しさだけで気が遠くなりそうだ」
 気が遠くなりそうな点ではこっちだって負けてない。いや、これは『ぶっ飛びそう』と表現すべきか。
 カワイイ?!
 中坊の辺りから、オフクロにだってそんなこと言われてないよ!
 うわうわ、やめて下さい、人の耳を、んな思いきり引っぱんないでくれ。背中を後ろに押し付け、つい両目を閉じてしまった日向の顔を、彼はひとしきり両手でいじくり回す。とりあえず気が済むまで好きにさせて、日向は止めていた息に盛大にせき込んだ。
「結論から言いましょう。──返品は受け付けません」
「ど、ど、ど、どうしてですかっ?」
「よーく考えてごらん。いいかい、そのサイズの服、僕が着られると君は本気で思う? あるいは直しも完璧に入れた後で、お店に返却する事が可能だと?」
「あ、…」
 ──なんで、オレはそんな基本的なこと忘れてたんだッ?
 日向はソファからずり落ちかけた体勢のまま、口を開けっ放しで彼の顔を凝視した。
「と、言ったところで日向くんの気持ちは解決しないでしょう。さてそこで提案だ。僕のお願いを一つきいて欲しいんです。ひょっとしてかなり我がままなお願いかもしれない。でもまったく無理ってわけでもない。…どうだろう? それで帳消しにならないかな?」
 五十万が帳消しになるお願いってどんなんだ! 身売りしたって追っつくかどうか。
 日向が瀕死の声で呟くと、似たようなもんかなとヒジョーに怖い答えが返ってきた。
「き、…聞いてからそれ断われるんですか?」
「うーん、どうしよう。……まあいいでしょう」
 あのね、と彼は暫く真剣に表情を引き締めた。端正な顔がそうするとますます際立つ。
「単刀直入に言うと、──脱いでほしいんだけど」
「はあー?!」
「あ、全部とは言わない。全部とは言わないから、せめて上半身…でも大腿部も見たいんだけどね…出来ればね…」
 この人。
 身体フェチかいッ
 カズさんがあれほど嫌がってた理由がなんとなーく判った気がした。あの人もいい身体してますもんね。泣けるぜ、なんか。
「だけど、そのあの、オレじゃなきゃダメな理由でも?」
「ダメって言うかね。美しいと感じさせる基準…理想があって。君を見ちゃったら、僕が他に今は目がいかないんだ」
 ──ウツクシイ?!
 これは正真正銘、一度たりとも言われたことがないお言葉。
 本日もう何度めか判らない絶句に喉を詰まらせ、日向はげほげほとソファに仰向けに倒れ込んだ。
「大丈夫? 水を持ってこようか」
「すいません、その前にまだ質問が…っ」
 立ち上がった若島津氏は、なんだろうというように優美に首をかしげる。
「ふうん。どうぞ」
「…こういうこと、普段もしょっ中やってるんですか」
「あまりしないように心掛けてはいる」
 言いながら袖をまくって、そこらに落ちていたスケッチブックと鉛筆を拾い上げる。シャシャシャッと音が走り、ほんの三十秒ほどで薄茶の紙には人間の片耳が出現した。
「オレの…耳?」
「うん。少し後ろに反ってるね、ラインとしてはいい形だ」
 日向に見せた一枚は破り取られ、次の一枚に素早く鉛筆が移っていく。寝転がった姿勢でそれを眺め、日向はこれは本気で嘆息した。
「はあ、すげー…」
「そうかな、ここまではさしたる差はない。君だってそうでしょう。ただ走るだけなら他の人でもしてることだ。僕はね、君の写真の表紙を見た時、その雑誌を衝動買いしていたな。美しいと思ったよ、こんな美しいフォルムがあったんだなと思った。これをずっと探してたんだ、今まで何を見てたんだろうってね──…」
 口を動かし続けていても手は止まらない。降ってきた三枚目の紙を捕まえて、日向は上半身を起き上がらせた。
「ここから、線を削ってってああいう絵になるのかな」
「んん?」
「いえ、あのほら、版画の…」
 そこでやっとスケッチから顔を上げ、若島津さんはうっすらと破顔した。
「見てくれたの。ありがとう」
「そんな、お礼言われちゃうと、…ええと」
 うわーん。一緒にヤバい記憶が蘇る。そんなに人間離れした顔を向けないで下さい。オレはもしかして、…もしかしてそっちのケがあったのかあっ?
 どきどきする。気のせいじゃない。『見たい』で済んでるこの人の方がまだマシだ、だってオレは今思っちゃってたもの。
 触りたい。
 どうしよう、あの滑らかに動く指先にもう一度触りたい。ヤバい、言い逃れが不可能な状態になってきてる。いつからこんなことになっちゃったんだろ、怖いもの見たさとかそーゆうヤツか(ちょっと違う)。
 日向が思考をぐるぐると沼の上で旋回させている間に──そのココロは気を抜いたが最後、真っ逆さまに泥沼に足まで突っ込む──芸術家氏はすっかり腰を落ち着けてデッサンにかかっていた。それに気が付き、試しにこわごわとみじろいでみたら、動くな!、と鋭い声で叱られてしまった。
 かと思えば、次は後ろを向けとか肘を曲げろとか、好きなことを指示し始める。いつ脱げと言われるかと思うと生きた心地がしなくて、日向は仕方なくムウっとした顔で、言われた通りに出窓の所に片肘をついた。
「すんません、オレもう一つ質問が」
「んー…。はい」
「最初からこーいう…下心っつうか計画があったわけですか」
「いいや、そこまでは言わない。間近で見たら満足するかと自分では思ってた。いやはや満足どころか…僕はかなりアブナい人の自覚はありますよ」
 なんだ、あるのか。
 窓の外を横目で日向は睨んでいて、突然聞こえなくなった鉛筆の音に視線だけを慎重にずらす。見ると、曲げた指の背を唇に押し当て、じーっと彼は動かず一点を見つめていた。
 視線の先を点々で結んでみて、日向はぐぐぐと眉間に皺を寄せた。
「…いいですよ。触っても」
「ほんと? ごめんごめん。僕今、物欲しそうな顔してたな」
 ええ、穴が空くかと思いました。なんてギャグはさすがに口にはしなかったが、代わりに近付いてくる彼の気配と、その指先の方向に神経を集中する。
 肩、から首へ。一旦離れてまた肩の付け根へ。
 ああもう、この人ってばほんとに物欲しそうにオレに触る。指先からそれがピリピリ伝わってくる。
 判ったぞ、オレがおかしくなったわけ。この人に手を握り返された、思えばあれが一番最初だった。ただでさえゲージュツカなんてパワーを使う職業で、いいか、いたいけな青少年にこのオーラぶつけて接してみろよ。少々アテられたって当然じゃないか!
 強引に、しかしあながち間違ってもいない結論に達した日向は、ほとんど条件反射で肩から離れかける指先を掴んでいた。
 ザラッと荒れた感触の、だけど揃った形の綺麗な指。ああ、この指だ。夢の中と同じ温度に湿度。そこまでは掌を使って感じ、あとは何も考えないまま第一関節まで口に含む。
「──…っ」
 舌を使い、歯をキシリと立てたら、小さな悲鳴が微かに上がった。オレ今、何やってんだろうと隅っこの方の意識が呟いている。鷲掴んで逃せないこの感触ってば何なんだろう?
 一番近いところで表現するなら真夏のきついトレーニング、やっときた休憩で、冷たいペットボトルを受け取った時のあの感じに似ている。
 こめかみを打つ熱い脈、顎から伝い落ちる塩っぽい汗。思考部分は遠く麻痺してる。飢えてる、乾いてる、頭ん中はそんな記号ばっかりだ。
 ──そうだ。飢えて、乾いてたんだ。もっと触れたい、溢れるほど満たしたい。
「っ、ヒュウ、ガ…ッ! やめ──、やめなさい!」
 叫ばれ、日向はハッとして歯を緩めた。
 舌先を鉛の芯の味が苦く刺す。微かに震える彼の指の関節には、くっきりと赤い痕が残っていた。
 彼も驚いてるが日向自身はもっと驚いた。たった今の出来事なのに、とても自分の行動とは思えなかった。
「す、…すいません! オレ、」
 カーッと頭に血がのぼる。
 でも欲求の残り火は確かに身体の奥で燻っていた。『好き』より先に『欲しい』、『触れられる』よりは『触れたい』。
「でも、でもオレは、悪戯でやったんじゃなくて…っ それは、ホントにふざけたんじゃなくて!」
 じゃー、本気かい。
 自分で口走ってることの重大さを、日向はまだ悟っていない。呆然と息を切らせ、傷ついた指をもう一方の掌で庇ってる彼を見てたら、一層に何もかもが混乱して収集つかない。
「ごめんなさい、──ごめん!」
 叫んで立ち上がり、積んであった雑誌に一度つまづいて前のめりにつんのめる。落ち着きなさい、とか言われた気もするが定かではない。そのまま部屋を駆け抜け、玄関から表へ一気に飛び出す。
 そうして最寄りの駅に着くまで、ごめん・ごめんなさいと、日向は呪文のように唱え続けていた。靴を履きっ放しの家で良かった、でなけりゃ裸足でも気付かずそこまで走っただろう。
 ごめんなさい。どうしよう、オレの方が全然変だ。誰にもこんなこと相談出来ない。
 

 切符販売機の前で途方にくれ、青年はポケットの小銭を強く強く握り締める──。
 



 

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