【1】

 

「日向、いるかァッ!」
 ロッカールームのドアがバァーン!、と開くなり、部屋中に朗々と険悪な声が響き渡る。
「───オイ判ってんだぞ、いるんだろッ」
 やばいと思って日向が身を隠すより、先輩がロッカーの端を回って、陰になっていたこっちの列に来る方が早かった。
 目が合った瞬間、
「いませんッ」
 とこれはもう、ほとんど脅迫観念で叫び返す。そんなアホなと周囲が呆れるほどの隙も与えず、俊足中堅FW、反町一樹は、期待のルーキー日向小次郎くんに猛然とアタックをかけた。
「ンっなわきゃねえだろ! てめェ、いー加減にしろォー!」
「うわあああっ」
 トレーニングシャツを脱ぎかけで、半端に両腕を拘束されてる状態だったのもマズかった。日向は抵抗らしい抵抗も出来ないまま、背後の開きっ放しだったロッカーの中に後頭部から突っ込んだ。
「───いっ…テーッ!」
 星、星が瞼の裏にキラキラと飛んだ。いくら日向が石頭と異名を取っていても(主に、ヘディングで競り合って激突したDF陣に)、これはちょっとなんだ、ご無体過ぎる。
「も…、カズさんッ ひでェ、ムチャッ…クチャ、しないで下さいよッ!」
「おお、俺だって好きでしてんじゃねェんだよ! てめー昨日今日、判ってて俺から逃げ倒してやがったんだろうがっ」
 ええハイ、それは…まあ、そうです。日向は頭をさすりながらヨロヨロと立ち上がった。
「だからって、ここまでするかよフツー…」
「ああ!? 聞こえねェぞ! それとも聞こえねえように言ってんのか!」
「ハイ!! すいません、オレが悪いっす、申し訳ありませんッ」
 もうベタベタに体育会ノリで頭が痛くなる。じゃなくて、そうか、これは今ぶつけた痛みか。
 本来は気のいい、どちらかと言えばオシャレを誇る先輩は、そこでこのジョーダン挨拶に決着をつけた(痛い冗談だ…)。いきなり真顔になったかと思うと、「どこ打ったんだよ」なんて殊勝なことを訊いてくる。
「どこって…。頭、ここんとこガンッて、ハンガー掛けんトコにもろ行きましたよ…! マジ痛いっスよ、もーシャレんなんねえ」
「だからァ。お前な、俺が好き好んでお前を追っかけ回してるわけじゃねぇって、その辺りの事情を組めよ」
 素直にさ、と反町は大袈裟にため息を吐いた。あああ、ホントに大袈裟。日向はとりあえず脱ぎ途中のシャツを頭からすっぽ抜いて、足元のでかいドラムバッグに押し入れた。
「……また…電話あったんすか?」
「先週は二回だろ。今週に入ってからはこれで毎日か? くそ、またあいつ非通知でかけてくっから、俺も律儀に全部取っちまうんだよ───」
 非通知を着信拒否にすれば済む話な気もする。つまり、今現在このお人には、かかってくる電話をとり逃したくない『誰か』がいるってことだ。
 そこらを日向は突っ込んでみようかとも思ったが、この場においてはセンパイの逆燐に触れそうでやめておいた。オレにだって自己保身の心構えぐらい備わっているのだ。たまに、…たまにねー、発動のタイミングを見過ごしたりもしてるけど。
「しまいにゃー、お前のケータイナンバー教えるぞ。なんだってそんなに連絡取るのが嫌なんだよ」
「嫌っつーか…ちょっと、なんつーか…喋りづらいっつーか…状況的にこう、いろいろっつーか…」
 ごにょごにょ。ごにょ。
 みんなが聞き耳を立ててるこんな場所で、詳しい説明なんて出来るわけがない。もとい、例え今ここで先輩と二人きりだったとしたって、絶対に絶対にゼッタイに!、自分の口からは説明出来ない。たとえ死んッでも!、言いたかない。
「──…とにかくさ」
 日向のその悲壮な顔つきを見て、反町先輩は諦めたようにポンポンと肩を叩いた。
「お前、忘れモンしてるって話だぜ? 一度、電話ぐらいは入れとけ。な? お前があいつ苦手がるのは、俺だってなんとなーく判る気はしてんだから。会うのが嫌なら、その忘れモンだかなんだか…郵送してもらったっていいんだし」
「はァ…」
「まあ、あいつにも言ったけどなー。俺はお前宛の伝言版とか、留守番電話じゃねえってのよ、ほんとに」
「そっか。機能、いいっスよね」
「あ?」
 俯いたまま、ぼそりと呟いた日向の声に、反町は意味が判らんというふうに頭をかしげた。
「え、いや、留守電にしたら機能すげぇイイですよね。留守だったら吹き込んでおしまいじゃないですか、電話のは。嫌がってるのをここまで追っかけ回して、何が何でも伝えるっつーのは、ちょっと機械には真似出来ねぇよなって──」
「あ、の、なー…」
 肩に置かれたままだった手が震えている。あ、ヤバイと日向が思った時には遅かった。
「どーしてお前はそう呑気で、しかも一言も二言も余計なんだッ」
 ───やっぱり、オレの自己保身能力って、あんまり正常には作動してないかもしんない。
 その晩、クラブチーム寮の自室にて、頬にアイスノン添えた日向は深く考えさせられた。
 
 
 
 
 連発されていた『あいつ』とは、反町一樹氏の中学校時代の同級生、言わずと知れた若島津健氏のことである。彼はJリーガーのご友人より、ある意味、お茶の間においては有名人だった。どのくらい有名かと言うと、テレビCMにご出演しているくらいには有名だった。
 あるいは『著名人』という言葉を使った方が的確かもしれない。出演しているCMも歴代文化人が数多くこなしてきた伝統もので、いわゆる『一流文化人』的スタンスとイメージを求められるコーヒーの宣伝。前話と重複を承知で繰り返すと、それがインスタントコーヒーなのは冷静に考えると結構笑える。
 内容としては、いかにもヤラセくさい豪奢な山荘での昼下り、友人たち(設定としては多分その辺)と談笑を交わしつつ、彼はゆったりとコーヒーを一口含む。音声はほとんど音楽のみで、彼がアップになった瞬間にかぶせ、画面右側にデカデカとフルネーム及び肩書きが文字で入る。そうして『この一杯、このひととき』とかなんとかカッコつけたナレーションが流れたあと、山荘にくつろぐ(もちろんその右手にはさり気なくコーヒーカップが握られている)若島津氏と共に、商品の大写しと宣伝文句でCMは終わる。
 品格と上質さがセールスイメージの、このCMは実を言えば若島津氏の雰囲気そのままだった。まさかねー、と高を括っていた日向小次郎くんは、ご本人と直接にお会いしてたのち、それをつくづく実感した。
 しかし、ここに画面には写し出されなかった事実がもう一つ。
 若島津健氏はかなり、───かなり奇矯な方だった。
 そのキレ具合と言ったら、なまじのことでは気迫負けしない自信のある若きプロサッカー青年・日向くんを、ビビらせるに充分なほどの奇矯さだった。そしてまたこれが前述のように見目と雰囲気はいい人なので、日向はパニック状態にまでかるーく突き落とされた。だってそんなん予想つくわけないよ、顔だけ見てりゃ!
 以来ここ一週間、日向はテレビで彼を見かけるたんびにメゲそうになっていた。
 まったくもって心臓に悪い。なにしろモノがCMなだけに、いきなり画面が(しかもオープニングはドアップで)出るものだから、こっちも「来るぞ、来るぞ」という心構えのしようがない。おかげで番組提供のテロップにその社名を見つけた途端、リモコンを鷲掴む早業が身に付いてしまった。一度なんかは他人の部屋でそれをやって、しかも問答無用に他人のチャンネル権を剥奪したので、ルーキー仲間から大不評を買った。
 CMだけでなく、ふっと気付くと、彼は週末ニュース番組のコメンテーターとして出演してたりなどもするようだ。まあ、頭の回転も良さそうな上、あの通り大層にアピール性のあるご容姿をなさっているわけだから、そりゃマスコミが放っときもせんだろう。
 実際、日向は彼を見て「美形」「二枚目」という言葉の意味に初めて理解が至った。好む好まぬに関わらず、一般的「美形」ってのはこういうのを言うのかと。
 そしてサイアクなことに──今ならはっきり言う、それはまさしく最悪なことであったのだ──日向にとっては割とその…ええハイ、認めます、好みの範疇の美形顔だった。
 なにがどう最悪か? そんなの決まってる、相手が奇矯で男だってことだ。それがあとの大きな混乱と誤解の元となっちゃったのだ!
 ちなみにこの二つはセットになっている。どちらか一つだったら、ここまでこじれた(日向に主観によれば)ことにならなかったはずだとつくづく思う。
 そんでもって、あの言動に関しては誰が見たって、どー考えたって相当──ヘンだよ!!
『脱いで欲しいんだけど』
 遠慮がちに、しかし単刀直入に言われたこの台詞に、日向の目は点になった。いや、点を通り越して白目にさえなってたかもしれない。
 若島津氏の職業を前もって知っていてさえ、バクダン発言と申せましょう。カメラマンじゃありません、それもなんだか怖い想像だ。前話を御存じの方には申し訳無いが、しつこくここで連呼をさせて頂きます。
『版画家』
 本業はそれ。油描いたり陶芸やったり、エッセイ本出したりテレビに出たりってのは、一応は副業としてカウントされる。日向がご指名を受けた某週刊誌の対談コーナーも、反町の話によるとほとんど趣味で引き受けたらしい。
 あとに、歯医者の待ち合い室のラックでそれを見付け、日向はざっと何号かを読んでみた。
 ハイソかと思えばお相手に合わせて冗談の応酬もあったりして、意外と親しみやすい対談だった。これならオレでもなんとか喋れたかなと、断わったのをちょびっと後悔したくらい。このテの後悔は日向にしたら随分と珍しい。サッカー専門誌のインタビューでさえ、普段は苦手で逃げ回ってるんだから。
 でも、と数秒後には頭をプルプルと振る。
 ───あの人、ヘンだよ。
 オレは怖いよ、凄く!
 何が怖いって雰囲気に呑まれそうになる自分、その上に暴走まで始めそうな自分。手綱を取れない自分自身が日向は一番に怖い。
 あれらの奇矯さのみについて判断すれば、『困惑』はするが『怖く』はない。もといちょっとくらいは怖いが、逃げ倒したい、とまで思い詰めるほどでもない。事実、日向は呑気にお洋服一揃い奢って頂いて(この馬鹿、アルマーニのスーツをですよ!)、ノコノコご自宅まで訪ねちゃったりしてるわけだ。
 そのお洋服ってのが、おそらく反町が電話で聞いた『忘れ物』ってヤツなのだった。
 あとに値段をチームメイトに聞いてめちゃくちゃビビって、日向はそれをお返しに伺った。『簡単にこんな高価な物を頂けません』と神妙に述べた日向に、若島津氏は交換条件として言ったのだ。
『だったら僕のお願いを聞いて欲しい。それで帳消しにならないかな』、と。
 で、例の『脱いで欲しい』にいくわけですが───。
 こ…、困惑。色々あって、パニクって、日向はその荷物も忘れて逃げ返ってきてしまった(文字通り)。電話をかけてくる若島津氏の気持ちも判る。日向のサイズにお直しも入っちゃったスーツを、彼が持ってても仕方ないって理屈も理解した。


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