【2】

 
 でも。
 …でも、ですよ。受け取りに行ったら、モデルをオッケーっていう意味になっちゃわないか!? 例え郵送でだってまた受け取っちゃったら、あの人に借りが出来たことになりゃしないかっ?
 こういう考え方は、本来日向は嫌いだった。貸し借りなんてことをいちいち考えながら、他人に接して生きていこうとも思っていない。好意や愛情を疑いたくなかった。その代わり、悪意や敵意もしっかり受けとめて、真正面向いて立つ気合いと足腰も必要だけど。少なくとも今迄はそうやってきた。まだ少年の気配が端々に残るこの青年の、それは確かに強さでもあったのだ。
 なのに、ここ一週間の自分は「らしく」ない。落ち着きが無いし、妙に攻撃的になったりもするし、かと思えばぐずぐずと卑屈な考え方までしそうになる。
 自分が、自分で判らなくなるのは凄く怖い。
 自分でもどうも出来ないとこに走ってっちゃうのは、凄く怖い。
 そんな気持ちにさせる、あのゲージュツカ先生が、日向は得体が知れない感じがして苦手だと思った。電話なんかでリアルタイムの会話なんぞしようものなら、絶対にまた一人で勝手にパニクる自信がある。嫌な自信だけど本音なんだからしょーがない。
 だけどこのままじゃ礼儀上どうかという気もひしひしとしてくるし(反町の立場は…?)、参っちゃったな。ホント、これはもう、……参っちゃったな。
 
 近頃クセになりつつある煮えきらないため息を吐き、日向はようやく電話番号をプッシュする。
 
 
 
 
「───いらっしゃい」
 あ、またメガネしてる。呑気にも日向の第一の感想はそれだった。
「…どうも」
 ペコリと頭を下げて、ドアを押さえて下さっている若島津氏の横をすり抜ける。
「今日はお休み?」
「休みって言うか、まあオフはオフ、…です。あ、と…午前中の自主トレには参加してましたけど」
「ああ、もうちゃんと動いてきたあとなんだ」
 午後の早い時間、玄関ホールには階段途中の大きな窓から、柔らかい日差しが落ちていた。前に来た時は気付かなかったが、ばかでかい油彩が二階位置の壁にかかっている。本人の絵じゃないのは直感的に感じたので、「そういうモンなのかな」と妙な感心の仕方をした。
 それからまた気付く、思ったより今日の自分は落ち着いている。スタートとしては悪くない。前回は辺りを見回してはいても、こんな連想を頭に浮かべるまでの余裕は無かった。
「スケジュールって不定期なの?」
 え?、と一度訊き返してしまってから、すぐに頭をこっち側に引き戻す。
「いえ──、いえ、基本的には決まってます。シーズン中は大抵が日曜がオフで……、他は試合翌日とか…、時期によるかな」
「なるほど。やっぱり忙しそうだ」
 若島津氏はまくっていたセーターの袖を引き下ろし、自分よりやや高い位置にある日向の目を見て微笑した。正面からの柔らかな視線は居心地が悪く、日向は何気なさを装って顔を逸らす。
 通されたのは例のごとく、ホール脇の居間(のような部屋)だった。相変わらず様々な雑誌類が散乱を繰り広げている。石膏の型みたいな物とその向こうの雑誌の山を一つまたぎ越え、前と同じ出窓下のソファに辿り着く。
 若島津氏も日向がそこを選ぶことを予測していたようで、今日はその上だけが何も乗せられていなかった。ストン、と無言のまま日向は腰を下ろし、下ろしたはいいがあとで慌てて言う。
「あっ すいません、座ります!」
 怪訝な顔付きで日向を見返した若島津氏は、それから思わずといったふうに吹き出した。
「ごめ…ごめんなさい。いいね、君はそういうとこが。僕は好きです」
「───は」
 へ、返答に困る。
 頭をかく仕草で日向がやり過ごしている間に、キッチンの方からケトルの高い笛のような音が響いてくる。
「コーヒー、紅茶。どっち?」
 廊下を振り返った若島津氏は、その横顔のままポンと日向に言葉を投げた。
「は?」
「ん、だから君はコーヒーと紅茶とどっちを飲みたい? まだお湯を沸かしただけだから。今ならどっちでも受け付けられますよ」
 紅茶なんて滅多に飲まないから味が判らん。勢いと習性で「コーヒーを」と答えてしまってから、前回に彼が『僕は本来は紅茶党なんです』と言っていたのを思い出した。しかし時既に遅く、廊下へ続くドアに彼は消えたあとだった。
 なんか…今ひとつテンポが掴めない。パニクらないで済んでるのはいいけど、自分の状況がやっぱりまだ判らない。
 だいたい、よくまたここまで自分が来たもんだと感心する。
 電話の内容的には、若島津氏は随分と控目だった。何度も催促されてから電話をかけている日向のことを、取り立てて責めも非難もしなかった。
 ───お元気でしたか。
 例の穏やかな口調で切り出して、ひと通り挨拶など述べて、あの日の日向の挙動不審すらどこかにうっちゃったまま会話は続いた。
 なぜか日向はそのことにムッとした。ほっとする反面もあったが、どうしてだかカチンときた。
 その筋合いでないのは判っているのに、自分でも意味不明の『カチン』であり『ムッ』だった。
 ───そう、君の忘れ物があるんです。ご存知だとは思うけど。でもお忙しそうだし、かさばるしね。良かったら宅急便か何かでお送りした方がいいと思って。
 先に提案され、お願いしますとはどうしても言いたくなくなって、『伺います』と日向はその時即答していた。電話の向こうで沈黙が流れた。
 ───マズイですか。
 ───いえ。…いえ、その方がいいんだったら。
 どっちがいいのかなんて知るもんか。そう喚きたい気分の日向だった。何言ってんだよオレ、って自分でだって思う。会いたくないって本気でさっきまで考えてた。
 だけど、口をついた言葉がそれなんだもの。日付と時間をお約束し、電話を切ってしばらくの間、日向はマクラを抱えてゴロゴロとベッドの上で暴れていた。なんたってその暴れ加減に、壁越し、隣室から苦情が入ったくらいだ。
 それから数日、ずっと日向は不機嫌なまま過ごしてしまった。最高潮だったのは今日の午前で、ルーキー仲間はともかく、めざといセンパイ・反町にまで「お前、何やってんだよ」とぼやかれた。普段はこの先輩、朝の自主トレなんか顔出ないくせに、こんな時だけ居るんだからまったくヤになる。
 悩んだが、結局反町にも今日のご訪問のことは知らせなかった。日向が一発くらったあの日から若島津氏の電話も無いわけで、薄々何かを感じてはいるはずだと思う。突っ込みが向こうから無いのも逆に不穏な気もした。なのにコーナーからのヘディング練習、五度目に合わせ損ねて『オレ走って来ます』と吐き捨てた日向に対し、『ま、がんばんな』と肩をこづいただけだった。
 
 
 やれやれ、と日向はため息で、ソファの背もたれに肘を乗せてふんぞり返る。
 何やってんだ何やってんだ、何やってんだよオレ。
 だけど仕方ないから一つだけはちゃんと断わろう。脱ぐとかなんとか…ええと、そーいうことは出来ませんと。クラブのフロントのせいにしちゃうってのも手は手だな。なんだっけ、ショウジョウケン、なんていうのが僕の場合はクラブ側にありまして…───。(※ 肖像権のことと思われます)
「お待たせ」
 トレーを持って入って来た若島津氏に、急いで姿勢を元に戻す。前回はマグカップをひょいと渡されたものだったが、今度はソーサー付き、おまけに添えた器にはクッキーとチョコレートが盛り上げられていた。
「ども、なんつーか…すいません」
「ああこれ? 昨日のお客の手土産なんだ。そのまま出してるだけだから、そっちこそ気にしないで。僕自身は甘い物はあまり食べないしなぁ…。なんだったら箱ごと持って帰らない? 君のお仲間見ていると消費率は良さそうだ」
 お仲間、と言われて一瞬ピンとこなかった。クラブチーム全体を示すより、もっと範囲が小さい感じがしたからだ。
 その疑問が顔に出ていたらしい。ああ、と若島津氏は頷いて、「ほら、チームの君と仲のいい若い子たち」と言い足した。
「特に、練習場にいつも同じ時間に出てくる人がいたでしょう? 髪がこう短い、足が凄く早い男の子。あの子なんかは帰る時間も同じことが多いね、一緒に寮から行き帰りしてるのかな? あともう一人仲が良さそうな子もいたな、茶色の髪の背の高い子。その三人で女の子たちに人気があるみたいだ。並んで喋ってる時の声援がもの凄い」
「…て、───え? 練習見に来てたんですか!?」
「何度かね。知らなかった? スケッチブック持って金網手前の芝のとこに陣取ってましたよ」
 知らなかったよ! 多分、反町先輩だって気付いてない。ヒマなんすか?、と訊きそうになって、それはあまりに失礼なので日向はグググとこらえた。
 週末、金網越しにサポーターや追っかけのコたち(この二つの違いはちょっと微妙)がたまってるのはいつものことで、これはいちいち気にしていたら練習になんかならない。高校時代からそういったギャラリーには無関心でいる術を心得ている。集中力の訓練ともいえる。クラブハウスと駐車場との行き帰り、ねだられればサインもするけど、ごめんなさい、顔はちゃんと見てないかもしんない。
 つまり、向こうから寄って来なけりゃ、個体としての認識すら日向にとっては薄いのだった。
「…声、かけてくれりゃいいのに───」
「うーん。でも君、お仕事中でしょう? 僕も僕なりにお仕事中なわけです。それに見ているだけで、これが結構気が済んでたしね」
 あ、またちょっとムッとした。無意識に寄った眉を掌で押さえ、日向は前屈みに膝を睨んだ。
「…まずかったかな?」
 まずいって言えばまずい、ような気もする。趣味の範囲ならともかくプロの人だと、スケッチ取るのでもショージョーケンとやらに引っ掛かるんだろうか。特にこの場合はフロントや本人にも無許可なんだし──…。(くどいようですが『肖像権』です)
「仕事と言っても」
 日向の苦悩の矛先を察したのか、若島津氏は自分のマグカップを片手に笑った。
「大丈夫、人には見せないから。これは僕の愛人たちなんで、こっそり囲っておいてます」
 その妙にキワドい比喩はひとまずスルー。
「他にも…そうやって描いたりするんですか…? そうやって、気が向いたら誰かを描いたり」
「たまにかな。たまに、歩いてて追っかけたくなる人もいる。今は君だけ」
「……。うちのチームメイトとか。あの、反町さんとか」
「反町ねえ。あいつには嫌がられたんだよねえ、学生時代。当時から中学生にしちゃいいバランスの身体をしてたんだよ。あいつで男の筋肉の描き方覚えたってのは確かにあるかな」
 なんか更にアブねぇ言い方だな。
 せっかく前のはスルーしたのに、今度は耐え切れず怪しい方に頭がぶっ飛びそうになって、慌てて日向はコーヒーに手を伸ばした。
 ───今は君だけ。
 どうしてこんなに心臓がバクバクいってんだろう。オレ、どうして顔も上げられないでいるんだろう。それと同時にどっかで『ムッ』としてもいるんだよ。あえて表現するなら、胸と腹の中間地点に、変な塊がつかえてる感じ。
「なんでオレ、にこだわるんですか」
 まるでそこに親の仇でもいるみたいに、日向は膝頭を睨みっ放しで言葉を喉から押し出した。口許まで運んだはいいけど、コーヒーはとてもじゃないけど喉を通りそうになかった。
「美しいと思ったからだよ」
 なのに、するっと、それがごく当然のことのようにゲージュツカ先生は答えを返した。
「君を最初に見た時から、君以外の世界の全部が霞むくらい。───これ、前にも言ったね? 君だけを僕は見ていたいと思ったんだ。大げさでもなんでもなく、本当の意味で君以外に今は何かを見たいとは思わない。…そう、あのフォルムが僕を惹きつけて離さない……」
 低い骨董っぽいテーブルの向こう、肘かけ椅子の背によりかかり、若島津氏はうっとりと呟くように言う。それはもう、うっとりと。視線の先には天使でもいるんじゃないかと思うくらいだ。
 あなたの絵が、好きです。
 あとになって考えると、日向がその時に言いたかったのはそんな台詞だった気がする。シャープなライン、シャープな影、鮮やかな原色の抽象的な線たち。
 ナマモノをちゃんと見たわけではないけれど、版画集を一冊ひとに借りただけなんだけれど、あなたの絵を見てたら思い出せそうな瞬間がある。胸の底からこみあげてくる一瞬がある。
 コーナーからのボールをヘッドで押し込んだあの決勝点。もしくは、ディフェスを強引に振り切って向かったゴール前、喉の奥から叫ぶように叩き込んだギリギリのシュート。
 一瞬だけだ、パーフェクトなのはいつもその一瞬だけ。そのために走り続けるし喚きもする。死にそうな顔で祈りさえする。無駄を限界まで剃ぎ落とされた、これがきっと全部の意味。
 あなたの見る夢が、たぶんオレは好きです。
「なんか───、それってすげェ勝手だ」
 だが、日向は立ち上がって吐き捨てていた。
「……勝手?」


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