【3】

 

「だってそうじゃないですか、そんなのオレに関係ない。今はって、今だけ我慢してくれっての!? あなたが飽きるまでオレに付き合えって。いつか、飽きてオレ以外に気に入ったオモチャが出来るまで? 悪いけど…悪いけどオレ、そこまでお人好しじゃないしヒマでもねえよ。イッポーテキで勝手じゃねえか、凄く!」
 違うよ、という形に彼の唇が動いた。驚いて、少し悲しそうに、そういう意味じゃないんだ、と。
 じゃあどんな意味なんだよ、判んねえよ、判るように言ってくれよ。
「オレの見た目がちょっとばっか気に入ったからって、オレを勝手に巻き込むなよ!」
「そうじゃない…!」
 叫んで、芸術家先生も立ち上がった。
「いや、…いやそうかもしれない、でも聞いてほしいんだ、そんなふうに思わないで。僕は確かに勝手かもしれないけど、君をそんなふうに傷つけるつもりじゃなかったんだ」
 傷ついてなんか。言い返そうとして、日向は自分が泣き出しそうなのに気付いて驚いた。痛みなんかない、傷なんかついてない、そう怒鳴り返したいのに息が詰まる。
「ごめん、…泣かないで」
 傍に来た若島津氏に、そっと腕を掴まれる。振り解くことも出来ずに、日向は掌で隠して顔を背けた。
「……なんで、怒んないんですか」
「怒る? どうして」
「オレ、判ってる。自分でもムチャクチャ言ってるって。こないだのことだって、ヤバイのは頭では自覚してた。でも、そっから先が判んないんだ。───だって怒るだろ、普通あんなことされたら怒るだろ。なのになんであんた何にも言わないんだ、オレ、絶対おかしいのに…──」
 息が、詰まる。
 オレおかしいんだ。こんなに苦しいし、顔が見られない。掴まれた腕が熱い。そこから火がついて、身体中に飛び火してくみたいだ。それとも、ずっとこの火は内側にあったんだろうか。息を吹きかけたらパッとそこだけ赤く燃え上がる炭火みたいに。
「オレ、…」
 泣きたいなんて、ぜんぜん思わないのに。
「───座りなさい」
 ピシャリと声が頬を打つ。
 唐突な、冷たいとも思える声音だった。それはなぜか日向を無抵抗で従わせた。重力に引かれるままに腰を落とすと、肘から一旦離れた手がなだめるように肩に置かれる。
「数をかぞえて。…そう、十ぐらいまで」
 PK戦のキック前に、五つかぞえる癖が日向にはある。ずいぶんと以前、それは確か小学生の頃、初めてのコーチに教わった方法だった。お前は目が先に動いちゃうんだ、それじゃ相手に判っちまう。いいか、そのことばっかり考えてもダメなんだ、集中する前に一度落ち着いて、自分の方向と相手の方向をきちんと把握するんだ…───。
 いつもの倍。
 丁寧にゆっくりと、日向は声に出さずにかぞえ終わった。
「かぞえた。…終わり、ました」
「じゃ、とりあえずコーヒーも飲んでおきなさい。せっかくいれたんだから」
 視界の隅で、肩から外された手がどこに行くのか見ていると、テーブルをぐるりと回って自分のカップを掴み、なぜか隣に戻って来た。腰かけた重みでソファがたわむ。
 古めいた高価な骨董モノっぽいソファは、日向がやや真ん中寄りに座っていても、二人の間に充分すき間があるくらいには広かった。
「ごめん。───僕は無理なこと押しつけてたんだな。そんなに嫌だとは思わなかったんだ」
「嫌って…オレ思ったけど、違う。意味がたぶんちょっと違う。……オレ、ここに来んのヤだった。話しすんのヤだった。こんなふうに、自分で判んなくなんのがすげぇ…ヤだった。グチャグチャになって、コントロールきかないの、───怖いよ」
 あの指先がなめらかに動いて、日向の前髪に優しく触れる。今日は日向は逃げなかった。息がすぅっと楽になる気がした。うつむいたまま顔を上げない日向の肩に、芸術家先生が寄り掛かる。
「パワーだね。…若いからかな? 違うな、そういう力を持って生まれてきてるんだ。コントロールがうまくないのは、経験の不足のせいかもしれないけど」
「……。フリーキックみたいだ」
「ああ、似てるかもしれないね。力をためて、イマジネーションを高めて、踏みきった瞬間のつま先の描く弧は……やっぱり美しいだろうな……」
 若島津氏の言う『美しい』の意味が、日向も今度は少しだけ理解できたような気がした。閉じ込めた力、それは一瞬だけのパーフェクトだ。鮮やかな線。
「どうしてだろう…。どうして、あんたはオレに訊かないんだろう」
「この間のことを?」
「そう、たぶんそうだ。あんたはオレが知らないこと、まるで全部…知ってるみたいだ。あんたに好かれたり触られたり、オレ…それはヤじゃないよ。でもあの時、触られるより、オレは触りたかった」
 飢えてたし、乾いてた。制止の声が入らなかったら、この指先を食いちぎるぐらいしたんじゃないかと思う。
「あれはねぇ…血が出てたよ。本当、食べられちゃうかと気が気じゃなかった」
 笑って、彼は指先を見せびらかすように表裏と掌を返す。一週間以上も前のことだし、痕は残っていなかったけど。
「僕だって知らないよ、全部なんて知るわけがない。神様じゃあるまいし」
「信じらんない」
「僕が知ってるのは、僕の頭が君でいっぱいだってことと、僕があの時に見てた君の目のことかな。うんそう、……ライオンみたいだった…。君はライオンを見たことがある? 動物園のなんかじゃないよ、サバンナの本物の野生のライオン。僕は一度だけある、一度だけ遠くから見た。危ないからってそれ以上は近寄らせてもらえなかったんだ、テレビクルーも一緒だったしね。でも遠くからだって判ったよ。あの目が僕を見た時、……喰われたいって思ったな」
 あんた、それは。
 ───マゾなんじゃないか!?
 ふ、ふ、ふ、と思い出し笑いをしているセンセの重みを肩に、日向は複雑に首をかしげた。
「だ、──…だから?」
「ん? ああ、怒りもしないし訊ねもしないワケを知りたいんだったね? 僕はあれにはセクシャルな意味をあまり感じなかった。君がそういうタイプに見えなかったのも大きいだろうし。職業柄、と言うより住んでる場所が場所なだけに、まったく彼らとご面識がないこともないしね」
 住んでる場所って、ああニューヨークでしたね。(※このお家は日本にいる間の別宅です、もしくは向こうの家がアメリカにいる間の別宅です。前話参照)
 彼らって、なるほど、そっちの彼ら…。
「もっとも、ハードゲイの人達には僕はタイプ的にいってモテないんだよ。バイセクシャルにはなぜなんだかウケがいいね、男にも女にも」
 なぜなんだか、…て、言いたくないが日向には判る気がした。判ってる場合でもないんだけどさと、冷静な部分の頭で一人で突っ込む。
「で、あー、……で?」
「セクシャルハラスメントにあれを感じたんだったら、僕だって落ち着いて君をここにお招きはしてないですね。言った通り、僕はそうは思わなかったんだ。あの目に…ぞくぞくはしたけどね…」
 その理屈で言ったら、強姦されるのは嫌だが、喰われるのはオッケー、つうネタになってしまう。そんなものなの?、そんな大雑把な──もといケッタイな。
「じゃあ、じゃあ例えばオレがあそこで押し倒してたらどうなんだ。セクシャル…ええと、ハラスメントになるんじゃねえの?」
「セックスを目的としていたらって意味か? 変だよ、その例えは!」
 ええい、だから青少年相手にさくさくそーいう単語を連発するな!、変なのはあんたの方だい!、と日向はまた喚きそうになる。
「あのさ! オレはね…っ、オレはどうせ単細胞だし、衝動的に生きてるよ。食い気とか、確かにひとより多い方かもしんないよ! もうごちゃごちゃだよ、頭ん中!! でもごちゃごちゃだから自分でも区別が付かないんだ、あんたの絵を好きっていうのと、あんたに触りたいって思うオレと、あんたのこと考えてて凄く腹立ってくるオレと、……あんたは区別付けられんのかよ!?」
 身体を起こして、まじまじと日向の顔を見返したあと、若島津氏はポツリと言った。
「───付けなくちゃいけないのか?」
 だって、だってまさか喰いはしないと思うけど、オレがこれ以上パニクッてやばいとこ行っちゃったらどーすんだよ。止められなくなったらどうすんだ。
「どこに行くと自分では思ってるの」
「どこって…」
 判んないから怖いんだってば。あれ、じゃあ判ったら怖くなくなるの、か? 自制とか、そういう言葉をちゃんと自分で発動出来るんだろうか。
 怒鳴りかけのポーズのまま、日向は困惑に固まってしまう。あげくに眉まで寄ってくる。その困惑を見透かしたように、若島津氏は穏やかな声で、「君は何をどうしたい?」と日向に優しく訊ねた。
「…言いたくない」
「僕が怒ると思ってる? 怒りそうなことなのかな」
 仕方なく無言で頷く。仏頂面になっている日向の表情に、若島津氏は声を立てて笑った。
「判った、僕も覚悟はしておくよ。話しちゃおうよ、このまま君に嫌われたのかもって、あとに思う方が僕自身はつらい」
 そんなもんなのかな。でも怒られるなら怒られるで、それですっきりする気もちょっとした。
 ───まず、まずひとつは確実に挙げられる。
「触りたい」
「なるほど」
「ええと、他は、掴みたい…は違うな、感じられるとこに行きたい。ここに全部あるんだなっていうとこ」
「……なるほど。あとは?」
「あと? あとは…手…指が…舐めたい、かな。味じゃなくて、なんだろ。あと服があるだろ?、その下とか考えるのと、口の中のことを考えるのと、ちょっと似てる。歯の形とか腕の形とか」
「うーん…」
 だんだん言っている内に赤くなってくる。うーん、と唸ったきり口を押さえて若島津氏も黙ってしまい、しばらく二人して静かになってしまった。やがて彼の方から、
「前言撤回」
「は?」
「かなりセクシャルな発想だ、それは」
 ───でしょう? オレも少しそこらが気になってたんだよ。混乱と誤解が噛んでるにしても、走り過ぎてる感じもするなって。
「……。うーん」
 怒るんじゃないかと思っていたが、悩むとは予想だにしていなくて、日向も仲良く腕を組んで考え込む。
「まずい、と思う。オレは」
「バレたら確かにまずいだろうな…。君は国民的サッカー選手なのに」
 いえあの、それ以前の意味で言ってんですけども。
「あんたは? あんた自身はどうなんだよ。立場がじゃないよ、感情の方だよ」
「ああ僕? 僕は…とりあえず未婚だし…いやこれは立場の問題か…。珍しいな、仕事以外のことで悩んでる…。僕は割と白黒はっきりさせる方だから、こういう悩み方ってあまりしないんだよ。…違うな、違うそんな話をしてるんじゃない。うーん、未知の世界は未知の世界だな……」
 彼も相当にパニクッてる。付き合いのごく短い日向でも、これが稀有なことなのはなんとなく想像がついた。
「未知ったって、さっきモテるって自分で言ってたじゃないか。対応も慣れてるもんなんじゃねえの?」
「男性に限って言えば、僕を誘うタイプの人物は僕の好みじゃなかった。たまたまかも知れないけどね、とにかく断るより他の対処方を悩まずに済んでいた。断り方ではそれなりに苦労もしたかな…」
「……じゃオレも断れば」
「そこに行けたら話も早いな」
「遅いの?」
「僕にしたらね」
 だんだん間抜けな会話になってきてると思うのは、おそらく日向一人だけの感想ではない。
 見つめ合うというより『睨み合う』に近い視線が交差したあと、彼は深々と嘆息した。それはここしばらく、日向の習慣となっていたあのため息によく似ていた。
「君、どうしたい?」
「言ったろ、触りたい」
「今すぐ?」
「今すぐ。いつだってだよ」
「…それから?」
 ───それから。
 若島津氏は視線を伏せて、やけにゆっくりとメガネを外した。それはいっそじれったいほどの、だけど優美な動きの指先だった。
「…感じて、泣かせて、…オレのにしたい……」
 いいよ、と吐息のように囁かれる。その時にはもう、日向は彼をソファに押しつけていた。首筋に指を回すと、陶然とした表情で日向を見上げる。日向の目や顔や、身体のラインをうっとりと見ている。
 フェティッシュな上に、やっぱこの人ってマゾっ気がある。
 そう思う日向は、実はサドっ気がある己を忘れている。
 抱き寄せて、キスをして、彼の上げる微かな声に夢中になる。掠れた息や震える薄い瞼や、そんなものまで全部欲しい。これが全部、オレのだって。
「…言ってくれよ」
「なにを…?」
「オレだけって、……オレだけだって言って」
 
 
 ───夢の中でまで逢いたい、あなた。
 
 

[END] 



page.1 page.2 《《

■ ■ ■

 

back ■  home