冑佛考


(河村隆夫「冑佛考」甲冑武具研究』105号(社)日本甲冑武具研究保存会発行平成六年七月一日)


                  まえがき


 思えば、あの時が始まりかもしれない。
写真家の木村仲久先生が、「静岡の民家」(静岡新聞社刊)を発表されるにあたって、我家へ何度か撮影に来られたとき、奥座敷の廊下で、「冑佛」を撮られた。
 「かわいい顔をしている。」
 撮影助手の女性が、突然少女のような声でつぶやいた。秋の木洩れ陽の中で、数百年の歳月を経てはじめて褒められたように、悦びにふかく輝く顔だった。あの時、如来像は私に語りかけたのかもしれない。自身の来歴が解き明かされる時が到来したことを、私に笑顔で告げたのか。


             第一章「河村家の冑佛」


 「冑佛」と呼ばれる小さな厨子入りの仏様が、昔から仏壇の御本尊の厨子の中に祀られていた。(写真一)
 「御先祖様が戦場で兜の中に入れて戦つた。」と祖母から伝えられてはいたが、誰もその貴重さを知らなかった。また、伝釆の鎧櫃も、あまりに朽ち果てたということで、二十年程前に父母がそれを捨てた。祖父と父は、ことあるごとに、柊戦直後の昭和二十年十二月二十一日、家宝として伝えられていた古太刀「波ノ平行安刃波弐尺五寸」が接収されたことを悔んでいた。
 御林守「河村家住宅」(寛政五年建築)が文化財指定を受ける遥かまえのことである。やがて文化財指定後、多くの学者研究者の手によって,河村家の数百年に渡る歴史が明らかになるのである。
 平成五年十一月、金各町教育委員会の主催で「我が家の家宝展」がひらかれ、そこに「冑佛」を出展すべきかどうかを迷ったが、仏様であるからと思い、展示をあさらめた。そのとき、「冑佛」と類似の仏様が小田原城に展示されていると以前誰かに教えられたことを思い出し、早速小田原城に電話した。


             第二章 小田原城「鎧仏」


 係長が電話に出て、「確かに尉子入りの小さな仏様がある。」とのお返事だった。
 十一月十六日に,小田原城に行き、普川係長にお会いして、すぐに撮影させていただいた。(写真二・三)
「鎧仏」と書かれていた。
 これは後に、電話で伺ったことだが、小田原市在住の東海俊夫氏の父君(十八年前に没)が収集家で、これを発見し、小田原城に寄贈したものであるとのことだった。出所は不明である。
また「鎧仏」の命名は誰なのか、その名の由来も、東海俊夫氏寄贈当時の職員でないと分らないとのことだった。
 次に私は、刀剣博物舘に電話した。
電話にでた方は「冑佛」「鎧仏」など見たことも聞いたこともないという感じだった。たただ以たようなものは個人所有で一つあるらしいからと、甲冑古物商を紹介して下
さった。
 店主は
 「代々甲冑類を扱い、私自身も三十年来この仕事をしているが、見たことはない。
私よりも、専門家である甲冑師の方が詳しいかもしれない。」
 と言うことで、ついに、三浦公法氏を紹介して下さった。


             第三章 武田信玄「冑前立不動」


 十一月二十三日、私は、甲冑師の三浦公法氏に電話した。
「私の家に高さ約七㎝、幅四㎝ぐらいの、厨子入りの仏様があり、代々「冑佛」と呼んで『祖先が戦場で兜の中に入れて戦った』と伝えられていますが、そのようなものが他にございますか。」
 と問いかけると、大変驚かれたようで、初めてお話するのに、突然多くのことを教えて下さった。
 三浦公法氏は、寒川神社に伝わる武田信玄公奉納の六十二間の筋兜(国の旧重要美術品指定)を復元された方で、その経緯は「甲冑武具研究第八十一号」に掲載されている。
 武田信玄が勝頼とともに小田原城を攻めたが落ちず、帰途、寒川神社に寄って、一面を火の海にした購罪にと筋兜を奉納したと伝えられている。
 その兜に、前立をとりつける角元が三本あった。三浦氏は他に類を見ない三本角元を不思議に思って、何か立体物がそこに納まったのではないかと考えられた。
 それは、故山上八郎氏の著書「日本甲冑の新研究」上巻の中に、「不動は武田信玄が尊信して用ひたといひ、『甲斐国志』巻六十八にも、八代郡西郡筋上野村御崎明神宝物信玄首鎧ノ前立金ノ不動、と見えて現に同社(現今表門神社と云ふ)に保存せられてゐる。」と記されていたからである。
 昭和六十二年六月、三浦氏は、寒川神社・寒川町町史編さん室の方々と調査団を組んで、現在の表門神社(山梨県西八代郡三珠町上野七九二)に赴き、「武田信玄冑前立不動」を調査拝見させていただいたとのお話であった。
 後に私が、(平成五年十一月二十五日)表門神社に電話で尋ねたところ、
 「出陣の際、兜の前立にして飾り、陣に着いたら、そこで祀った。」
 と説明された。表門神社は、県から文化財としての指定を多く受けている。
 さらに三浦氏はそのとき、
「私の友人が、兜の前立に、実際に厨子入り仏を装着しているものを見たと、葉書で送ってきてくれたが,今それが見あたらない。たしか、象の美術館とか言った。」
 と話された。
 十一月二十四日から数日間、私は別紙メモに記されているように、仙台市博物飽から大山祀神社まで,全国各地の戦国期の甲冑を所蔵していそうな美術館、博物館に電話をかけ続けた。
 ほとんどが、「冑佛」「鎧仏」など見たことも聞いたことも、伝承すらないということだった。
 ただ、仙台市博物館の学芸員の方は、「似たようなものはあるが、私は出張で、十二月十日すぎでないと帰って釆ない。」とのことで、その日を待つことになった。
 また、山形県の上杉神社の方は、後の十一月二十九日に、「上杉家に伝わる「御掛守」がそれに良く似ている。厨子は二つあるが、その資料をコピーして郵送しま
しよう。」と云って、三日後に資料を送って下さった。(写真四)
 さらに、大阪城天主閣の学芸貝の方は、十一月二十五日、「石山本願寺坊官の下間家所蔵の厨子入り念持佛、阿弥佗如来立像が以ていますが、高さが十五㎝ほどあるので、違うものだろうと思います。」とのお話だった。
 京都国立博物館の方は、
 「戦国期の武将が前立てに何をつけてもおかしくはない。その人が信じている神仏を身につけて戦場に赴くのは考えられないわけではない。」
 奈良国立博物館の方は、
 「このごろ、鎌倉期の武士の信仰については研究対象となってきたが、戦国期の信仰は未研究ですから、実におもしろい着眼点だと思います。あなたが研究されたら口何ですか。」と言われて、素人ですからと、恐縮した。
 高津古文化会館の学芸員の方の紹介で京都の甲冑師ともお話ができた。
 「戦場で生死に直面していた武士と信仰とは分ちがたい。多くの甲冑修復を手がけたが、梵語が胴の裏皮に書きつけてあることが多い。」
 十一月二十九日、上越市中門前一の一の一林泉寺御住職とお話した。
 「兜守は十五体ぐらいありますよ。一寸から一寸半ぐらいの小さな仏様です。足軽は、仏の姿やお経を木版刷りの紙にしてお守りにした。もう少し位が高くなると、木像を腰につるしたりした。ただ、厨子に入っているものは見たことがない。よはど位の高い武士だろう。それから、お宅の仏様は、手の組み方からみて、大日如来にまちがいない。おそらく、金剛界だと思う。」と話された。
 大日如来、金剛界と聞いて、私は頭にひらめくものがあった。小田原城から郵送して下さった資料の中に、相模の河村城の記述があった。
 早速調べると、確かに、新編相模国風土記稿巻之十六村里部足柄上郡巻之五に
 「般若院室生山智積寺と号す 古義真言宗 開基は河村山城守秀高と云…」
 と記されている。
金谷の河村一族が相模から移り住んだと「駿河記」などにあるが、物的証拠が無かった。
 この「胃彿」こそがその証拠たり得る。戦国期の陣を張るはどの武将、すなわち前出の武田信玄や上杉謙信、後日判明する濱田景隆、前田利孝などと匹敵する武将であり、真言宗を信じていた者でなければならない。
 現在我家は曹洞宗であるから、改宗する以前に信仰していた真言宗の仏像を、戦国末期から仏壇に祀ってきたと考えられる。
 河村家に伝わる多くの記録・伝承との一致、時代の一致、宗教の一致、それらを合わせて考えると、金谷に移り住んだ相模の河村城主の「冑佛」であると考えられる。
 十二月四日、三浦公法氏から「武田信玄冑前立不動」の写真等の資料が送られてきて、息の止まる思いがした。(写真五・六)
 あまりにも厨子が良く似ていた。
 ほとんど同じと言っても良いかもしれない。
 黒漆塗り、両開き、上に菊座輪環、これを見ると同じ職人の手になるものかもしれない。三浦氏も同意見だった。
 その時の手紙で、先日の「象の美術館」は、象は象でも「マンモスの美術館」だったと訂正された。しかし、それが山梨県のどこにあるのかは分らなかった。
 十二月七日、朝、家内が二通の封筒を恐る恐る私の前に差し出した。一通は、十年程前に他界した亡母宛のもので、裏を見ると、封印の青いセロテープに、
 「マンモス象牙美術館」
 と書いてある。
 夫婦で仰天した。
 すぐに封を開けると、印鑑の販売をしているところで、昔亡母が実印を作ったのに相違ない。私は電話してみた。
 確かに五・六年前に「武田信玄と武将展」を催したと言う。そのとき、前立に厨子入り仏を着けた兜が出展されていて、そのパンフレットに写真も出ていることが判明して、郵送して戴くことになった。
 送られて釆た冊子をひらくと、最初に、甲斐武田氏の象徴であった「御旗日の丸」が、次頁に、「前立・不動明王」として、確かに兜に装着された厨子入り仏の写真がある。(写真七)
 さらに驚いたのは、次の古文書「信玄の褒状」であった。(写真八)
 解説によれば、
 「…文面には、諏訪原から川崎にいたる間の伏兵ことごとく討ち果たし、敵将の首級到来して実検した。三日中に使番をもって褒美を届ける、という遠州攻略の軍功を賛えた内容が記されている。」とある。
 諏訪原と川崎は、我が家と目と鼻の先にある。恐いような符合だった。
 河村家「胃彿」から始まって半月の間に、小出原城「鎧仏」の存在を確認し、三浦氏と出会って「武田信玄冑前立不動」を知り、上杉謙信の「御掛守」、越後林泉寺からは「兜守」、そして我家の「冑佛」が大日如来であり、相模の河村城主秀高の開いた般若院が同じく真言宗であること、ついには、亡母の手びきで送られてきた写真集の驚くべき写真と古文書、あまりにも不思議な幸運の連続に、茫然とするほどだった。


               第四章 濱田景隆「護身仏」


 十二月十日が来た。
 仙台市博物館の方と話し、翌日家内が写真撮影に向うことになった。
 翌十一日夕、家内が写真と資料のコピーを持って帰ってきた。次の日に早速仕上った写真を見ると、我家の「冑彿」「武田信玄冑前立不動」と同じ厨子である。大きさ、黒漆ぬり、両開き、上に菊座輪環、中には色あざやかな八幡菩薩像が祀られていた。(写真九)
 「濱田景隆護身仏」である。
 仙台人名辞書によれば、「濱田伊豆 名臣。初稱は治部、諱は景隆、政宗公に奉仕して国の宿老となる。云々…」
 とある。
 また、山岡荘八の「伊達政宗」一巻の中に、天正十三年二本松城攻めの戦において、
 「瀬上景康、中島宗休、濱田景隆、桜田元親の四家老をして本宮を固めさせた。」
 とある。
 十二月十三日の夕、濱田景隆の御子孫に電話した。
 「我家では『守本尊』と呼んでいます。戦のとき兜の中に入れてお守りにしたそうです。天正十九年六月二十四日、宮崎城攻めの折、鉄砲玉にあたり、三十八歳の若さで亡くなるとき『そのまま、ここに土葬せよ』と言い残しました。そのとき兜からはずして、以来我家に伝わってきたものです。濱田景隆の墓は、言われた通りの田の中にいまでもあり、まわりを家臣の墓がとりまいています。濱田家は、伊達家初代からの重臣であり、伊豆が発生だと系図には書かれています。」
 と仰言られた。
 このとき初めて、我家と同じ伝承に出会った。
 「祖先が戦のとき兜の中に入れて戦った」と云う伝承は、文化財「河村家住宅」の見学客に、幾度となく説明してきたことだった。その頃は「冑佛」の貴重さも知らず、ワイシャツの胸のポケットから取り出しては、見学客にお見せしていた。兜の中に入れて、と説明しながら、「本当に入るのだろうか」と、半信半疑だった。
 しかし、濱田家御子孫の言葉を聞いて、初めて、我家の伝承の確かさを知った。
 「濱田景隆護身仏」と共に、同じ仙台市博物館に、「厨子御神体入」と名づけられた類似の厨子がある。菅野家伝来のものだが、高さが3㎝程で、「冑佛」「鎧仏」「武田信玄冑前立不動」「濱田景隆護身仏」の半分しかない(写真十)。形態は似ていても、用途が違うのかもしれない、と、そのときは考えた。やがて、前田利孝「守神」に出会う平成六年一月三十一日の、二か月程前のことである。


                第五章 前田利孝「守神」


 仙台行きに先立つ十二月八・九日、文化庁美術工芸課の紹介で、埼玉県立博物館企画展示課長から、六・七年前、茨城県竜ヶ崎市の中世城館跡から、冑にとりつけたらしい仏像が出土していると知らされた。早速竜ヶ崎市教育委員会に電話したところ、
 「室町時代の薬師如来像で、背面が平らにけずられている。また、冑にとりつけたらしい釘の穴が、背面にあいている。市村高男先生(中央学院大学)あるいは、佐膝正好氏(県立歴史館主任)が詳しい。」
 と教えて下さった。
 明くる平成六年一月三十一日、埼玉県立博物館と連絡がとれた。
「竜ヶ崎市の中世城館跡とは、鎌倉時代、北条氏支配下の得宗領内に、方形の城館が発見されたものを云います。そこからは、鎌倉期の鏡や刀が出土しました。やがて室町時代足利氏支配になって、八代氏がそれを城の形にします。出土した仏様は、冑の前立に使われたらしいもので、『関東出土金銅仏』と云う図録に詳しく載っています。
 それから、朝日百科から出版された『日本の歴史』の中世城郭史を書かれた方が、甲冑武具についてはお詳しいでしょう。」
 と話されたので、早速電話してみた。
 「冑の中に仏様を入れると云うのは、厨子のままではないでしょう。冑の中には、受張りという布が、丁度へルメットの内側のように張ってあって、それと兜との間に、木彫の仏や、経などを書いた紙を入れたのだと思いますよ。普段はそれを厨子の中に祀ったでしょう。江戸期には厨子入りの前立もあります。」
 など、多くを教えて下さった後で、
 「群馬県蛇宮神社に、前田利家の末子某が、大阪城攻めのときに陣中へ持っていったと云う兜と厨子入り仏がありますよ。ところで、私が昔、武田信玄の画について定説に異論を唱えて、山梨県内でセンセーションを巻き起こしたのは御存知ないでしょうなあ。」
 と話された。
 つぎに私は、群馬県庁、神社庁、を経て、蛇宮神社(群馬県富岡市七日市一〇〇三)に連絡をとると、蛇宮神社氏子会長を紹介して下さった。
 「会長さんは、七日市藩の家老の家系の方ですから。」
 と、何度か繰返して仰言られたのが印象に残っている。
 氏子会長のお話では、
「この兜と守神は、前田利家の五男前田利孝が、慶長十九年二十一歳、大阪冬の陣初陣の折に、また翌元和元年夏の陣にも着用したものです。守神は春日大明神で、戦のとき兜におさめて陣に赴いたようです。
 昭和十七年、貴族院議員等をつとめられた十三代前田利定が蛇宮神社に奉納されたもので、それが現在に伝えられています。他に采配などもあります。」
 と話された。
 富岡市教育委員会に連絡すると、市の指定重要文化財であると教えられ、資料の要請をしたところ快諾されて、三・四日後に郵送されて来た。富教第六二〇号と記され、教育委員会の押印がある公文書は、資料目録一枚、文化財指定台帳の写し一枚、指定文化財資料一冊であった。資料の冊子には、鯰尾の兜に封じてあった厨子入り春日大明神立像の写真がコピーされている。
 前田利孝「鯰尾の兜付守神」の守神は、大きさが丁度、菅野家の「厨子入御神体」と同じ位である。(写真十一・十二)厨子の形は初見のものだが、黒漆塗り、両開き、また扉に留め金具がないところは、小田原城「鎧仏」以外の五点、河村家「冑佛」、「武田信玄冑前立不動」、「濱田景隆護身仏」、菅野家「厨子入御神体」、そして、前田利孝「鯰尾の兜付守神」に共通している。
 前田利孝「絵尾の兜付守神」に辿り着いてようやく「古くから武士はその兜の内に自己の守神・持仏を納めて出陣する習俗信仰があった。」との記述に出会った。
 河村家の「冑佛」、「濱田景隆護身仏」にまつわる両家の伝承の確かさが証明された。
 平成六年二月上旬現在、私の調査はここで一息ついた。
 戦国の武将たちが兜の内に仏像や守神を入れて戦場に赴いたことは、遂に確定した。
厨子入りのまま兜に入れたのか、像だけ入れたのかは定かではない。また、「武田信玄冑前立不動」のように兜の前立に装着したとされるものは今のところ唯一であり、これからの調査考察によってさらに明らかになるであろう。


                    あとがき


 なによりも、甲冑師三浦公法氏との出会いが大きかった。
 迷える旅人の私の前に、突然、めくるめく光景を広げられ、さらに行くべき道を指し示して下さった。三浦氏への感謝の気持にあふれている。
 親切に応対して下さった多くの方々、また写真の撮影に御協力いただけたことにも、資料お手紙等お送りいただけたことにも、深い謝意を禁じ得ない。
 殊に、「御林守・河村家七つの謎」を御執筆中の、静岡県立金谷高校中村肇先生の懇切な御指導、また金谷町教育委員会町史編纂室片田達男先生の御助言を賜わらなくては、この拙文も完成し得なかった。謹んで感謝の誠意を表したい。
 この三か月、微笑む「冑佛」をいつも感じていた。
 幸運に恵まれ、人は優しさに満ちていた。
 いまは古里の山野が眼にうつってはいるが、心の底に、色とりどりの仏たちの風景の中を、息をつめて走りぬけた日々の記憶が、しずかな音楽となってひびいている。


                平成六年二月十九日  完


                      注

 (一)河村家
    「御林守河村家住宅」(静岡県榛原郡金谷町大代一八八二)は、金谷町指定有形文化財として、
    同教育委員会作成の高札等に、次のように紹介されている。
    「当家の発生は永正(室町時代)以前に遡ることができる。江戸時代に入って幕府より禄を受け
    苗字帯刀を許されて、幕府直轄の山林を管理ずる『御林守』という役職にあった。」
     また、同教育委員会発行の冊子に
    「金谷の河村一族は、相模の河村秀高の後裔であると『駿河記』に記されています。本陣柏屋河
    村家(家康の六子、辰千代、越後高田城主上総介忠輝の母阿茶の局の生家)柳屋河村家、御林守
    河村家は、いずれも『丸に違い箸』の家紋で、これは京都の家紋帳にもない極めてめずらしい家
    紋です。当家、御林守河村家の祖河村助次郎の父(川龍院忠学宗心居士)は、今川義元の家臣、
    松葉城主河井宗忠公三女(川龍院自雲妙性大姉)を娶り、その後は、代々河村市平を名のって、
    この地に居を定めました。云々」
     また、県立金谷高校中村肇先生の「御林守・河村家七つの謎」の一節には、「この宋心は河村
    家の祖であり当時遠江国佐野郡上島(現在の金谷町大代)にあったとされる天王山城の城主であ
    り、松葉城主と共に駿河・遠江の守護大名今川氏に与したという。親今川の松葉城主河合宗忠の
    死んだのが明応五年で、その九年後の永正二年六月五目に自雲妙性大姉が、翌六日に宋(宗)心
    が亡くなっているのである。松葉城が落ち、これを攻撃した鶴見氏も同年、今川氏親により滅ぼ
    されているのだから、九年後のこの相次ぐ死去は何を意味しているのか。親今川の河村一族の死
    ・天王山城落城の記録は定かではないのである。」等の記述がある。
 (二)河村城
    新編相模国風土記稿巻之十六付里部足柄上郡巻之五に「河村城跡」の記述がある。
     「…往古は河村山城守秀高が居城たり」また、河村城古図も記載され、広大な城であったこと
    が窺える。
 (三)濱田景隆(一五五四~九一)
     「濱田伊豆 名臣。初稱は治部、諱は景隆、政宗公に奉仕して国の宿老となる。」「…(天正
     十九年)七月中旬米澤を出でて廿四日宮崎民部の戍る所の城を攻む、民部能く之を禦ぐ、伊豆
     身を挺して戦ひ、忽ち流丸に中りて歿す、(享年三十八)墓は加美郡宮崎桧葉野に在り、…」
 (四)菅野正左衛門(一五九七~一六三七)
     「菅野重成 殉死者。正左衛門と稱す、伊達家累世の臣なり、幼にして政宗公に侍し、長じて
     薬込役となり、寛永四年新に三百餘石を賜ふ、公の薨ずるや、其翌六月二十日仙薹北山町覚範
     寺に於て殉死す、享年四十一、法名を叔久聯禅定門と云ふ」
 (五)前田利孝
     「七日市藩祖。利家の五男。兜については『前田家家譜』に、『元和元年乙卯四月再従幕府千
     役隷干前隊有功…云々』とある。」
      兜、守神については、「富岡市指定文化財資料」に詳述されている。




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