まえがき


冑佛(かぶとぼとけ)。それは戦場で、御先祖様が兜の中に入れて戦った仏さま。
 金谷町大代の河村家に伝わるこの伝承が、これから起こるすべての出来事の発端だった。
冑佛と言い伝えられてきたちいさな仏像が、
歴史の迷宮の奥に閉ざされた扉をひらく、秘密の鍵とは、
そのときまで誰も知らなかった。
 平成五年十月の、空の高い日だった。


 写真家の木村仲久氏が、のちに林忠彦賞を受賞することになる写真集、
『静岡の民家』の撮影のために、河村家を訪れた。
谷間の一軒家、という風情の屋敷は、静かな日ざしのふる風景の底に、
何ごとが起きるとも知らずに、穏やかに眠っていた。
 はじめ木村氏は、家の全景を撮り、やがて中に入って座敷や梁を撮影し終えたあと、
何か家に伝わるおもしろいものはないかと、私に尋ねた。
 それから一時間ほどのシーンを、私は、黒沢の映画のひとこまひとこまを見るように、
くっきりと思い起こせる。


奥座敷の廊下に、庭の紅葉を透かして木洩れ陽がさしている。
黒い板敷きの上に濃紫の布を敷いて、小判と甲州金、山岡鉄舟の鉄扇、
河村家が御林守拝命時に拝領した三つ葉葵の短刀などをならべ、
そして最後に、胸のポケットからとりだした冑佛を、
ひかりの斑のゆれるあたりに置いた。


 ふだんの冑佛は、仏壇の御本尊の大きな厨子の中に脇仏として祀られていたが、
祖母から聞かされていた伝承のおもしろさに、来客があるときはいつでも取り出せるように、
胸のポケットに入れていたのである。
高さ七センチほどの厨子の中に納められ、像高僅か二センチ、ちいさな宝冠をいただき、
智拳印を結んだ大日如来である。


 そのとき木洩れ陽をうけて、如来のちいさな宝冠がひかりの金の粒になった。
撮影助手の女性がかがみこんで、
「かわいい顔をしている」とつぶやいた。
 私もまじかに顔を寄せて、厨子の中の如来の顔をみつめた。
数百年の歳月を経て、はじめてほめられたように、ひかりのなかで微笑んでいる。
 私は恋に落ちた。


 それが歴史への不思議な旅の始まりだった。




                            序曲


 一ヶ月後、平成五年十一月に、金谷町主催の「我が家の宝物展」が開催されることになった。冑佛の出品をうながす声もあったが、仏様を人目にさらすのは申しわけない気がして、展示をあきらめた。そのとき、誰であったか、冑佛とよく似た仏さまが小田原城にあると、教えてくれたひとがいた。
 早速、私は小田原城に電話してみた。
係長が電話にでて、「たしかに、厨子入りの小さな仏さまがある。」と答えた。翌日、私は小田原城を訪ね、係長の普川氏に面会すると、すぐに展示室へ案内されて写真撮影が許可された。大きな二領の鎧のあいだに、高さ七センチほどの厨子に納められた仏さまがあり、「鎧仏」と書かれていた。係長の好意で、接写が許され、はじめて我が家の冑佛とよく似た小仏を、間近に見ることができた。私は、その横に、持参した冑佛をならべて、撮影した。小仏たちの住む不思議な世界は、その時点ではまだ明らかでなかったにせよ、我が家を出ることのなかった冑佛が、数百年の孤独から解放された瞬間だった。平成五年十一月十六日のことである。
 次に私は、刀剣博物館に電話した。
 「冑佛など、見たことも聞いたこともありません。」
 この電話の応答、かすかに笑うような口調を、これから何十回と聞かされることになる。ただ、幸運だったのは、甲冑古物商を紹介されたことである。
 店主は、「代々甲冑類を扱い、私自身も三十年来この仕事をしているが、見たことはない。わたしよりも、専門家である甲冑師の方が詳しいかもしれない。」と答えたあと、ついに、甲冑師三浦公法氏の連絡先を教えてくれた。
 十一月二十三日、私にとって生涯忘れることのできない電話になるのだが、それとは知らず、ひややかな返答を予想しながら三浦氏に電話した。
 「私の家に、高さ七センチ幅四センチぐらいの厨子に入った、二センチほどの仏さまがあり、代々冑佛と呼んで『御先祖様が戦場で兜の中に入れて戦った』と伝えられていますが、そのようなものが他にございますか。」
 そう問いかけると、三浦氏はしばらく間をおいて、やがて、驚きをおしかくすような声で話し始めた。
 武田信玄がその子勝頼とともに小田原城を攻めたが落ちず、帰途、寒川神社に寄って、一面を火の海にした贖罪にと、六十二間の筋兜を奉納した。実は、三浦公法氏は、当時国の重要美術品に指定されていた、寒川神社につたわる武田信玄公奉納の筋兜を復元された方であった。その兜に、前立てを取りつける角元が三本あった。三浦氏は、他に類を見ない三本角元を不思議に思って、何か立体物がそこに納まったのではないかと考えられた。それは、山上八郎の「日本甲冑の新研究」上巻に、「不動は武田信玄が尊信して用いたといひ、『甲斐国志』巻六十八にも、八代郡西郡筋上野村御崎明神宝物信玄首鎧ノ前立金ノ不動、と見えて現に同社(現今表門神社と云ふ)に保存せられてゐる。」と書かれていたからである。その「信玄首鎧ノ前立金ノ不動」を求めて、三浦氏は、寒川神社・寒川町町史編纂室と協力し、調査団を組んで現在の表門神社に赴き、「武田信玄冑前立不動」を拝見したのは、昭和六十二年六月のことであった。
 長い話が終わりかけたとき、三浦氏は、
 「私の友人が、兜の前立てに、実際に厨子入り仏を装着しているものを見たと、葉書を送ってきてくれたが、いまそれが見あたらない。たしか象の美術館とか言った。」
とつけ加えた。象の美術館、奇妙な名前だと、私は訝しく思った。
 十一月二十四日から数日間、私は、北は仙台市博物館から南は大山祇神社まで、全国各地の戦国期の甲冑を所蔵していそうな美術館、博物館に電話をかけ続けた。
 「冑佛など、見たことも聞いたこともありません。」
伝承すらないと云う嘲笑をまじえた答えがほとんどだった。知らないと言われつづけるほど、失望も深まったが、こころの底で、ひょとすると、とてつもなく希少な宝石の鉱脈に出会ったのかもしれないと云う、ひそかな期待も膨らんでいた。そのなかで、これから列挙するいくつかの返答は、やがて繰りひろげられる目眩く光景を予感させた。
 仙台市博物館。
 「似たようなものはあるが、私は出張で、十二月十日すぎでないと帰ってこない。」
 山形県、上杉神社。
 「上杉家につたわる『御懸守』がそれによく似ている。厨子は二つあるが、その資料をコピーして郵送しましょう。」
 京都国立博物館。
 「戦国期の武将が、前立てに何をつけてもおかしくはない。その人が信じている神仏を身につけて戦場に赴くのは考えられないことではない。」
 奈良国立博物館。
 「このごろ、鎌倉期の武士の信仰については研究対象となってきたが、戦国期の信仰は未研究ですから、実におもしろい着眼点だと思います。あなたが研究されたらいかがですか。」
 高津古文化会館に紹介された、京都の甲冑師。
 「戦場で生死に直面していた武士と信仰とは分かちがたい。多くの甲冑修復を手がけたが、梵語が胴の裏皮に書きつけてあることが多い。」
 上杉謙信の菩提寺、林泉寺。
 「兜守は十五体ぐらいありますよ。一寸から一寸半くらいの小さな仏さまです。
足軽は、仏の姿やお経を木版刷りにしてお守りにした。もうすこし位が高くなると、木像を腰につるしたりした。ただ、厨子に入っているものは見たことがない。よほど位の高い武将のものだろう。
 それから、お宅の仏様は、手の組み方からみて、大日如来にまちがいない。おそらく金剛界だと思う。」
 大日如来、金剛界と聞いて、頭にひらめくものがあった。小田原城から郵送された資料に、相模の河村城について書かれていたはずだった。
 早速調べてみると、相模河村氏の菩提寺、般若院についてこのように書かれていた。
 「般若院 室生山智積寺と号す 古義真言宗 開基は河村山城守秀高と云、文殊を本尊とし、愛染を置く…」
大日如来は真言密教の仏であり、我が家の冑佛は、相模河村氏の信仰と一致した。金谷の河村氏が相模から移り住んだと「駿河記」などにあるが、冑佛はその証拠になり得る。
 しかしこのとき、般若院は文殊を本尊としているのに、冑佛はなぜ大日如来なのか、かすかな疑問すら感じなかった。この謎のもつ極めて重要な意味は、五年の歳月を要して、やがて解き明かされることになる。
 十二月四日、三浦公法氏から「武田信玄冑前立不動」の写真が送られてきて、封をあけると、息の止まる思いだった。我が家の冑佛と、あまりにも厨子がよく似ていた。ほとんど同じといってもよいかもしれない。黒漆塗り、観音開き、上に菊座輪環、大きさと云い、同じ職人の手によるもののようだった。三浦氏も同じ意見だった。
 同封の手紙に、先日の象の美術館は、象は象でもマンモスの美術館だったと訂正してあった。しかし、それが山梨県のどこにあるのかは分からないということだった。マンモスの骨格が日本にあるのだろうか、と思いながら、象に関係ありそうな山梨県内の美術館にいくつか連絡をとってみたが、武田信玄の兜とは全く関係なかった。
 十二月七日、早朝、私は居間のテーブルに三浦氏の手紙と写真をひろげ、どうして美術館を見つけたものか、途方にくれていた。
 そのとき、玄関から戻ってきた家内が、私の前に、一通の封書を置いた。
 表書きに、河村さき様、と書いてある。十年ほど前に他界した亡母宛の手紙だった。
 だれからだろう。裏返すと、封印の青いセロテープが貼ってある。私は息をのんだ。
 「マンモス象牙美術館」と書いてある。
 私はすぐに電話した。
 確かに、五・六年前に「武田信玄と武将展」を催し、前立てに厨子入り仏を装着した兜が出展されていて、そのパンフレットもあるという返事だった。早速郵送を依頼した。
 送られてきた冊子をひらくと、最初に甲斐武田氏の象徴であった「御旗日の丸」が、次頁に、「前立・不動明王」として、兜に装着された厨子入り仏の写真がある。
 さらに驚かされたのが、つぎの古文書「信玄の褒状」だった。 
 「…諏訪原から川崎にいたる間の伏兵ことごとく討ち果たし、敵将の首級到来して実検した。三日中に使番をもって褒美を届ける。」
 諏訪原城址は国定公園に指定されていて、私の住む金谷町大代の地からも、すこし高台に上れば遠望することができる。川崎湊は、金谷町の東を流れる大井川の河口にあって、中世からの海路の要衝であった。実は、大代河村氏は、戦国末期には武田方に与していたのである。
 河村家の冑佛から始まって、小田原城の鎧仏、三浦氏と出会って武田信玄冑前立不動、上杉謙信の御懸守、そして我が家の冑佛が大日如来であり、相模の河村城主秀高が開いた般若院が同じく真言宗であること、ついには、亡母の手びきで送られてきた写真集の驚くべき写真と古文書、あまりにも不思議な幸運の連続に、茫然とするほどだった。
 十二月十日が来た。
 仙台市博物館と連絡をとり、翌日家内が写真撮影に向かうことになった。翌十一日夕、家内が写真と資料のコピーをもって帰ってきた。次の日に仕上がった写真をみると、冑佛、武田信玄冑前立不動とほとんど同じ大きさである。
 黒漆塗り、観音開き、上に菊座輪環、厨子の中には色あざやかな八幡菩薩座像が祀られていた。
 濱田景隆護身仏である。
 濱田景隆は伊達政宗の四家老のひとりで、仙台人名辞書によれば、名臣、伊達政宗公に奉仕して国の宿老となる、とある。
 十二月十二日の夕、濱田景隆の嫡流、濱田善男氏と電話で話すことができた。名門の人らしい、謙虚な人柄を思わせる声だった。
 「我が家では、守本尊と呼んでいます。戦のとき兜の中に入れてお守りにしたそうです。天正十九年六月二十四日、宮崎城攻めの折り、鉄砲玉にあたり、三十八歳の若さで亡くなるとき、そのままここに土葬せよ、と言い残しました。
 そのとき兜からはずして、以来我が家に伝わってきたものです。
 濱田景隆の墓は、遺言どおりの田んぼの中にいまでもあり、まわりを家臣の墓がとりまいています。」
 初めて、我が家と同じ伝承に出会った瞬間だった。
御先祖様が兜の中に入れて戦った仏さま、と云う伝承は、文化財に指定されている我が家の見学客に、幾度となく説明してきたことだった。兜の中に入れて、と説明しながら、本当に入るのだろうか、と、半信半疑だったが、このとき濱田氏の言葉をきいて、はじめて我が家の伝承の確かさを知った。
 仙台市博物館には、濱田景隆護身仏のほかに、菅野正左衛門厨子入御神体と名づけられた類似の厨子がある。菅野家伝来のものだが、厨子の高さが三センチで、冑佛、鎧仏、武田信玄冑前立不動、濱田景隆護身仏の厨子は、すべて七センチほどあるのに、それは半分ほどしかない。形態は似ていても、用途がちがうのかもしれない、とそのときは考えた。一年後に、さらにちいさな冑佛の一群に出会うことになるとは、知るよしもなかったのである。
 翌平成六年一月三十一日、文化庁美術工芸課に紹介された埼玉県立博物館と連絡がとれ、その話のなかで、ある中世史家と話すようにすすめられた。早速電話すると、「群馬県蛇宮神社に、前田利家の子某が、大阪城攻めのときに陣中へ持っていったと云う兜と厨子入りの仏がありますよ。」と教えられた。
 私は、群馬県庁、神社庁を経て、群馬県富岡市の蛇宮神社にたどり着き、そこで、神社の氏子会長を紹介された。そのとき、電話にでた女性が、会長さんは七日市藩の家老の家系の方ですから、と、歴史の息吹を感じさせるように、何度も繰返す声がいまでも耳に残っている。
 氏子会長は、「この兜と守神は、前田利家の五男利孝が二十一歳のとき、慶長十九年大阪冬の陣初陣の折りに、また、翌元和元年夏の陣にも着用したものと伝えられています。守神は、春日大明神で、戦のとき兜におさめて陣に赴きました。昭和十七年、貴族院議員をつとめられた十三代前田利定が、蛇宮神社に奉納されたもので、それが現在に伝えられています。」と話された。
 富岡市教育委員会に資料を要請したところ、快諾されて、三・四日後に郵送されてきた。「前田利孝鯰尾の兜付守神」は、富岡市の文化財に指定されていて、資料の中に、鯰尾の兜に封じてあった春日大明神の写真もあった。
 守神は、大きさが丁度、菅野正左衛門厨子入御神体と同じくらいである。
 厨子の形は初見のものだが、黒漆塗り、観音開き、また扉に留め金具がないところは、いままでのすべての冑佛と共通している。
 前田利孝の守神に辿り着いて、ついにその指定文化財資料のなかに、
 「古くから武士はその兜のうちに自己の守神・持仏を納めて出陣する習俗信仰があった。」
との記述に出会うことができた。
 河村家の冑佛にまつわる伝承の確かさが、完全に証明されたと云う思いだった。胸の底に、深いよろこびが湧いた。一代も途切れることなく、伝承を言いつたえてきた代々の人たちへの、あふれる感謝の気持ちが、数世紀を遡って、やがて御先祖さまにまで達するように思われた。
 この三ヶ月、微笑む冑佛を、いつも感じていた。
 幸運に恵まれ、ひとは優しさに満ちていた。
 窓辺に立つと、冬の山野が眼にうつってはいるが、心の底に、色とりどりの仏たちの風景の中を、息をつめて走り抜けた日々の記憶が、しずかな音楽となってひびいている。
 しかしそれは、序曲の終わりにすぎなかった。


                             奥州の冑佛


 実際、私の幸運はここからはじまったのである。
 平成六年の二月に序曲の内容を書き終えると、前出の甲冑師三浦公法先生のご助力を得て『甲冑武具研究』に「冑佛考」と題して掲載されることになった。『甲冑武具研究』を発行している社団法人日本甲冑武具研究保存会は、文化庁が直接所管する社団で、日本全国の甲冑類や種々の武具に関する研究と、それらの保存を目的としている国内唯一の団体である。その研究誌に、甲冑とは縁もゆかりもない素人の私の文章が載ることになったのである。自分の身に何が起きようとしているのか、喜んで良いのかどうかすら判断できぬほどの、自失の状態だった。むしろあまりの幸運を恐れて、原稿を送ったあとは、総てを忘れてしまいたいと願った。私はひどく狼狽していた。
 研究誌は五月に発行されたが、私はその喜びをおし隠して、生業である学習塾の経営に戻った。私はもともと少年時代から科学者志望だった。中学も高校も、数学や物理が特に好きだった。大学も理学部で物理化学を学んだ。ただ、十代の後半から一時期、小説に興味を惹かれたことはあったが、それは過去のことで、誰にでもある青春の夢と挫折だっただと自分に言い聞かせて、家を守るためにすべてを忘れたはずだった。私は仕事に専念した。
 平成六年の春と夏はまたたくまに過ぎた。
 さて、間近にみなさんを待ちうけている驚愕の結末、つまりこの年の秋におきた異様な体験について、私は、ありのままを、時の流れにそって記してみようと思う。それが、事実をつたえるものとして最も誠実で正確な手法と信じるからだ。


 忘れていた友人から、ふいに手紙が届いたように、それは晩秋の夜のテレビドラマから始まった。


                           (H13.11.3更新)


 冑佛考  続冑佛考 冑佛考V                



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