続冑佛考


 (河村隆夫「続冑佛考」『甲冑武具研究』113号・114号 (社)日本甲冑武具研究保存会発行)




                      まえがき


 『吾妻鏡』第一、治承四年八月二十四日の条に、次の記述がある。


  武衛取御髻中正観音像。被奉安于或巌窟。賓平奉問其御素意。仰云。傳首於景親等之日。
  見此本尊。非源氏大将之由。人定可胎誹云々。件尊像者。武衛三歳之昔。乳母令参籠清水寺。
  祈嬰児将来。懇篤歴二七簡日。蒙霊夢之告。忽然而得二寸銀正観音像。所奉帰敬也云々。


 この件りは、故前田青邨画伯の「洞窟の頼朝」によって広く知られている。
 治承四年八月十七日、挙兵した頼朝は、やがて石橋山の戦いに破れ、土肥賓平等と共に或る巌窟に隠れた。『平治物語絵詞』などに所見される様に、当時髻は烏帽子に覆われ、さらに冑の天辺の穴から引き出されている。
 その髻の中の正観音像を、頼朝は取り出し、巌窟の中に安置して秘したのである。
 実平の問いに、頼朝は次のように答えている。


  首を景親等に伝ふるの日、此の本等を見て、源氏の大将軍の所為に非ざるの由、
  人定めて誹りを胎すべしと云々。
                 (「新定源平盛衰記」巻二十一後注訳・新人物往来社)


 篤く信仰する尊像を、容易く人の眼に暴したくはないと誰しも思うが故に、一群の冑佛は秘仏とされ、数世紀に渡ってお互いの存在を知ることもなく、全国各地に点在していたのである。


      ニ、各地の冑彿

      (一)平安末期


          ア、坂上田村磨呂


 『花巻市史』第二巻に、次の記述がある。


   二二、胡四王神社(矢沢神社)
  所在地 矢沢字矢沢三の一六〇
  祭 神 大己貴命 少名彦名命
        ー 中略 ー
  由緒
  伝えによると延暦年間(八世紀末)坂上田村磨呂が蝦夷平定に下向のとき、武運祈願のために
  自分の兜の中心に納めていた薬師如来を安置したのが起源であるといわれている。稗貫氏時代
  非常に栄えたが、天文年中(十六世紀半)の火災で一時衰微した。南部氏時代になってからは、
  代々その崇敬をうけ社領を賜り格式の高い神社であった。文化十五年(一八一八)別当が神道
  祠官に取立てられてから本尊を薬師如来から医薬の神の大己貴命、少名彦名命にかえて今日に
  至っている。


  古文書が数通所蔵されており史料に掲載した。それらの中に、この神社の由緒についても記さ
 れているが、それを整理して前書のようにまとめた。詳細に知りたい方は史料を参照していた
 だきたい。
  宮 司 杉山昌之
  氏 子 矢  沢
    ー 後略 ー


 胡四王神社宮司の杉山昌之氏は、
 「古文書によると、大同二年(八〇七)三月、坂上田村磨呂が、武運祈願のために薬師如来像を安置し、杉山右京を残してそれを守らせた。また、薬師如来像は金銅仏で、小さな黒漆塗りの厨子に祀られている秘仏です。」
 と仰言った。


 『岩手県の歴史散歩』の一節に、次の記述がある。


 バスを降り、100メートルほど進むと清水寺(天台宗)の門柱があり、その参道を一キロメートル進むと日本三清水の名刹清水寺に着く。寺は坂上田村磨呂が蝦夷征討に難儀し、兜に納めておいた十一面観音に祈願してこの地に堂宇を建立したのが創建と伝える。本堂には十一面観音像を安置し、また関流千葉六郎胤規銘の大算額が奉納され、寺宝となっている。東国三十三観音の第一番札所である。


 清水寺では、
 「一寸七分の秘仏、閣浮陀金十一面観音立像は、坂上田村磨呂が兜に納めたと口伝によって受け継がれ、現在は胎内仏として本尊の胸中に秘められています。この地は、現在は花巻市、もとは稗貫郡太田村であって、西の八方山の頂上に建つ御堂から清水寺へ、秘仏十一面観音を移したと伝えられています。」
 と仰言った。


         イ、木曽義仲


 『木曽ー歴史と民俗を訪ねてー』第九章に次の一節がある。


  神戸地区をはずれるあたりに「是よりかけぬけ道」の石の道標が目につく。そこを下 ると、かぶと観音の
 横に出る。これも義仲、義昌との伝承をもっている。
   天正十七年巳丑三月二十五日
   奉造立観音薩垂堂舎成就也、
   大檀那山村道勇入道、観音堂本願地中主
   二右衛門敬白
  これは、かぶと観音堂(写真3)の木造棟札の墨書銘である。これによって、木曽義昌が下総の網戸へ移封される前年の天正十七年(一五八九)三月二十五日に、山村良候が大檀那となって造立(この場合は改修か)されたことのあることがわかる。
  かぷと観音のいわれ
  ○木曽義仲との関係
 義仲が以仁王・源頼政のよびかけに応じ、治承四年(一一八〇)に挙兵し、北陸道を京へ上ることになるが、その際に、木曽谷の南のおさえとなる妻籠に砦を築き、砦の鬼門に当る神戸に祠を建て義仲の兜の八幡座の観音像を、行基が沼田の岩戸の窟で刻んだと伝えられる仏像の胎内に祀ったのがおこりと伝えられる。
 北陸道を進んだ義仲は、寿永二年(一一八三)には越中蠣波山で平家を破るが、この有名な倶梨迦羅峠の合戦で手柄のあった加賀燧城主の林氏の一族林某をこの観音堂の別当職に任じ、この地方の武士の頭梁として砦を守らせたと伝えられている。庭に残っている石は天正十七年の改修前の礎石かと思われるが、義仲の腰掛け石といわれ大切にされている。
  ○木曽義昌との関係
  妻籠城の戦いの際、木曽義昌は籠城を余儀なくされ、食糧弾薬ともに少なくなった。その時に、義昌はこのかぶと観音に「木曽興亡の時、南無八幡武運を我に与え賜え、勝利の暁は銭参百貫文を寄進せん」との願文を奉って祈願したところ、観音堂の屋根から白鳩が舞い立ち、妻籠城の天守にとまった。このようなことがかつて義仲の昔、倶梨迦羅峠の合戦のときもあって大勝利を得たという故事を聞いた義昌方の将士の士気が大いにあがり、敵を打ち破ることができた。戦後、義昌は銭三首貫をこのかぶと観音に寄進したという。


     (二)戦 国 期


       ア、加藤清正


 『日本甲冑の新研究』第一編第二章第二説甲の三の八(七一頁)に、次の記述がある。


 序でに記すべきは加藤清亙の長鳥帽子の兜(写真4)で、傳ふる所によれば之は彼の手写せる数部の法華経を以て張固めたもので、更に内部の頂上には彼が平素信仰して措かざる日蓮上人の黄金像を安置してあるといふ。以て古名将の信仰を窺ひ知る事が出来よう。


 これに類するのは、前作『冑佛考』に既出の、「前田利孝鯰尾の兜付守神」である。
『富岡市指定文化財資料』に、次の記述がある。


       鯰尾の兜 付守神
   一、名 称 鯰尾の兜 付守神
   一、所在地 富岡市七日市一〇〇三
         蛇宮神社
   一、管理者 蛇宮神社氏子総代会長
         富岡市七日市一五四五の一
         篠原 清
   一、法 量 高さ六八・二センチ
   一、説 明
  鯰尾の兜は、戦国時代一部の武将に愛用されたもので、前田利家の用いたもの(高さ約一メートル、銀箔押)が著名であるが、利家の子利長(加賀藩第二代藩主)も着用したといわれる。これは旧七日市藩祖、利家の五男利孝の着用したもので、兜については、「前田家家譜」に「元和元年乙卯四月再従幕府干役隷干前隊有功 伝日両役幕府並尊兄利常卿給軍焉軍中護神鯰尾冑白糸威鎧蔵糧 秩禄初幕府千口家 加賀藩二千口 二年丙辰 四月 或云十二月廿六日 賜上野国甘楽郡内一万十四石以祚其功労即邑干七日市」とある。昭和十七年前田利定が蛇宮神社に奉納したものである。
 兜は突ぱい形の十枚張の鉢の上に、鯰の尾を高く伸し、正面から見ると一枚の薄い板のように見え、側面からみると少々後方に反りかえった烏帽子形のものである。全面に黒漆をかけ、日根野の五枚しころ 、威は啄木系で十五ケ所威している。前立は輪貰で、現状は鍍金をすり落したため赤銅色になっている。またしころはほとんど糸が切れて離れ離れになっており、将来補修を要する。兜の忍の紐は麻でつくられている。面頬も黒漆塗りで猿頬であり三枚の垂がついている。
 鯰尾の兜は七日市藩の本家前田利家を初め前田家に多かったといわれ、蒲生氏郷の使用したものは名物に数えられているが、数少ないものであり、その由来も明らかなもので、戦国時代作の武具として貴重なものである。
 付 守神
 古くから武士はその兜の内に自己の守神・持仏を納めて出陣する習俗信仰があったが、前田利孝は春日大明神の神像を守り神として兜に封じておいたものである。木彫で総高二・三センチ、像高一・八センチ、幅〇・九センチあり、縦三・五センチ、横二・三センチの四角板に接着させてあり、その板裏には黒漆、表には金粉をちりばめている。これを高さ三・六センチ、幅二・八センチの外部は黒漆塗、内部に金粉をちりばめた厨子に、通常は納めている。厨子の表には「春日大明神」と金泥で記し、三面には蓮花を金泥で描いている。


         イ、武田典厩信繁


 『川中島古戦場の典厩寺』なる説明書の一節に、次の記述がある。


        二、武田典厩信繁守本尊
 厨子入一寸八分の観世音にして典厩出陣の際添書を□て武田太郎義信に渡し後当寺に納められて陣中観音と云う
     添書に曰 (典厩信繁直筆)
    急使申達候今日迄此観世音致懐中信仰之
    処為遺物与差遺候当家武運長久可有信祷
    候 不 備
    永禄四年九月十日 武田信繁花押 
    武田太郎義信殿


 この説明書には、典厩寺御住職の手紙が添えられ、云わゆる「陣中観音」について次のように述べられている。


    記
   永禄四年九月十日の川中島合戦の際、「かぶと」に秘めておりました陣中観世音(手紙ハ武田家武運長久祈ったもの)を添えて信玄の長男武田太郎義信に手渡して、信玄の身変りとなって第一線に立って討ち死にしたいわれの観音様です。


         ウ、大迫右近


 『盛岡三十三観音巡礼記』 に、次の記述がある。


     第十八番 上田組町 無生観音 正覚寺
    上田組町とば昔下級武士の住んでいた頃のこと、今は盛岡市土田二丁目五番十二号
    浄土宗十劫山正覚寺の本堂に安置されて居ます。
    聖観世音菩薩(写真7)で青銅造りの小さな立像で丈は僅か三糎六、台座を入れても
    高さ九糎ばかりの尊像でその昔稗貫郡大迫城の城主大迫右近が数度の合戦のたび兜の
    八幡座に納めて出陣し、生への執着を絶って必勝を期した由緒ある御仏で背中に無生
    の銘が刻まれていることで無生観音といわれ古の武将の面影が偲ばれる尊 い観音様です。
    天正十九年南部信直と戦って敗れ、大迫右近は没落するのですが、その最後の夜、
    大迫氏重代の家宝ともども菩提寺桂林寺に預けて離散しました。
    其の後同地方にあって庶民の信仰を集めていましたが、盛岡城下町石町惣門の富商
    平野八兵エがこれを聞いて譲り受けて持ち帰り、嘉永三年上田正覚寺に奉納された
    といわれます。正覚寺は寛永三年七月念誉天竜大和尚の開山で現在の堂宇は元治元年七月
    に再建されています。


 正覚寺御住職柴内興信氏の手紙には、無生観音の写真と共に『十劫山正覚寺 参拝のしおり』が同封されていて、それには次のように記されている。


    無生観音(盛岡三十三観音 第十八番)
     大迫観音
     金銅製の観音立像で、左手に未敷蓮華を持ち、右手は片手合掌印となっています。
     この尊像は稗貫氏の一族、大迫城主大迫右近の兜神と伝えられてきたものです。
     像高三センチの小像で、出陣のとき兜の八幡座に納められたものです。


       エ、亀ケ森玄蕃


 『早池峰草紙 おおはさまの伝説』に、次の記述がある。


       一四三 亀ケ森玄蕃の兜神
   亀林山中興寺には、代々亀ケ森氏の守護神として信仰の篤かった丈一寸八分
  (約五・四センチ)の閣浮陀金(純金のこと)の十一面観音が伝わっている。
  これには次のような言い伝えがある。
    亀ケ森図書の子である玄蕃も仏教を信奉し、父の護身仏であった観音様を引きつぎ、
   守本尊として兜のなかに納め、肌身離さず奉持していた。主家・稗貫大和守に反乱し、
   稗貫の家臣である槻木下野守光治と矢沢左近春真(次直)に攻められた時も、この兜を
   身につけて戦い出て、部下を励まして戦った。その時、一時は危うくなったのであるが、
   勢いを盛り返して、ついに敵将の槻木下野守を討ち  取ったため、敵は列をみだして
   逃げ去った。この戦いの後に、玄蕃が兜の観音さまを拝み見ると、光背の一方が欠けて
   いた。これは玄蕃が危うい時に身代わりとなったものであった。その後も、難を逃れる
   ことができたのは一度や二度ではなかったため、村人たちは「身代わり観音」と呼んで、
   その霊験あらたかなることを称えた。後略。(『亀ケ森村誌抄』)


 亀ケ森玄蕃の御子孫亀ケ森正一氏(高知市在住)のお話によると、家伝の厨子入り聖観音像が玄蕃以来祀られているとのことである。尊像の本体は二〜三センチで、二体の脇仏に守られていると仰言った。


          オ、北 松 斎


 『花巻市文化財調査報告書(第十四集)』の一節、「花巻城と八幡寺」の四段目、「雄山寺・自性院の調査から」に、次の記述がある。


   雄山寺には他に「蓬莱山観世音縁起一巻」が伝えられている。その末尾付録に
    一、壱寸弐分間浮檀金観世音霊像
      是ハ松斎髪中の霊像にして、度々危き合戦の場を遁れし故、松斎朝暮二信心不怠、
      慶長十八年八月十七日臨終之時、当寺に納む。
   花巻城の祈願所・八幡寺と北松斎公の菩提寺・堆山寺に、奇しくも松斎公の守本尊が納め
   られていたことが分る。八幡寺には、一寸弐分(三・六センチ)の十一面観音像、雄山寺
   には、一寸弐分の閣浮檀金の観音像(もとどり観音)である。後略


               三、考 察
  
              (一)秘彿としての冑佛


   武衛取御髻中正観音像。被奉安于或巌窟。賓平奉問其御素意。仰云。傳首於景親等之日。
   見此本尊。非源氏大将軍所為之由。人定可胎誹云々。(『吾妻鏡』)


 石清水八幡宮を鎌倉鶴岡に勧請した源頼義、石清水八幡宮にて元服し、自らを八幡太郎と号した源義家、後に旗挙八幡の神前にて挙兵し、倶梨迦羅峠を前に八幡の御宝殿に願書を納めた木曾義仲と、源氏の一統は深く八幡神を尊崇している。
 斯程源氏の氏神は八幡神であるのに、清和源氏の嫡流たる頼朝が正観音像に帰敬していたと知れては、人定めて誹りを胎すべしと、髻の中の正観音像(写真2)をはずして巌窟に安置したのである。


   件尊像者。武衛三歳之昔。乳母令参籠清水寺。祈嬰児将来。懇篤歴二七箇日。
   蒙霊夢告。忽然而得二寸銀正観音像。所奉帰敬也云々。(『吾妻鏡』)


 頼朝の正観音像への信仰は、個人的な霊夢の告に発している。それ故、八幡神に帰敬すべき源氏大将軍としての頼朝は、この正観音像を秘佛としたのである。即ち、自らの命のみならず一族の命運をも賭して戦場に臨む武将たちは、自身を守護する冑佛を其れぞれの由縁によって秘中の秘とし、況してや軽々に書面に記す可くもなかった。
 佛法や武術の奥儀は、書に依らず、多く口伝によって相伝されることを想えば、武将の信仰の中心に位置していた秘彿、冑佛こそ、生死の狭間を駈け抜けた彼等の内面に迫るための、核となるであろう。
 この『洞窟の頼朝』に象徴される第一の理由の他に、冑佛が世に知られず、研究の対象として着目されなかった理由は、幾つか考えられる。
 第二の理由は、冑彿が戦場に於てのみ意味をもつと云う特殊性にある。
 戦乱の世は十六世紀末に終焉し、江戸初期以来、幕末の僅かな擾乱期を除いて、甲冑に身を固めて一族の命運を懸ける可き戦は絶えた。数世紀に渡る平和は、武勇を誇る武門を時代の隅へ追いやり、更には、戦場での勝利を祈って兜に納めた冑佛やその伝承をも、やがて風化させた。
 第三の増由は、中世に於て覇を競い、寺院の開基や大檀越となった武将たちは衰退し、やがて無住となった多くの寺は、江戸幕府の統制下で曹洞宗に改宗して行くという過程がある。その流れの中で、背景に密教を色濃く残した冑佛は、改宗した家や寺院の仏壇の奥へ、次第に秘められて行ったと解釈することもできよう。
 他に理由を挙げれば、激烈な戦闘の最中に、小さな冑佛は、多く毀損され散逸して土中に眠ったであろうことが考えられる。それ故、僅かに現存する冑佛は、戦場で勝利し、またそれを継承する一門の繁栄が続いた武将の冑佛に限られたのである。
 このようにして、冑彿は歴史の波間に消えたまま、数世紀に渡る深い眠りを幌まされることなく、全同各地の寺社の奥深く、密かに眠りつづけていたのである。


     (ニ)冑彿を納めた箇所


      ア、髻から髪中へ


 『西遊日記』の中に『阿蘇文書』の「元取書」についての記述がある。


     大宮司儀今晩ハ羽二重紋付ニ白無垢を着し、緞子之大口を着用、文台を出し、
     其上ニ而数通之薄墨之御論旨 薄墨之御論旨ハ薄墨ニ而書したるものと思い
    来たりしが左二あらず、薄墨之紙なり。
炸二兄利尊氏より之元取書なとを載
    せ置、自身に読而見せ候御論旨ハ尊氏・直義以下之者共反賊二付征伐可致な
    と之類也。元取書といふハ尊氏いまだ反賊不致内私かに使者を大宮司惟時二
    遣し、使者髪之元取之内へ隠して持参せるものゝ由、三寸四方位之絹地也。
    文言の主意ハ自伯嘗国勅旨二付参候。合力いたすへき旨也。


 時代は前後するが、『吾妻鏡』に於る頼朝の「御髻中正観音像」と通底している。
 第二章の冑佛を、納められていた箇所について整理すると次の様になる。
  冑の中心…坂上田村麻呂
  髻   …源頼朝
  八幡座 …木曾義仲、大迫右近
  冑の中 …加藤清正、前田利孝、亀ケ森玄蕃
  髪中  …北松斎
 冑の天辺の穴の直径が大きく烏帽子を出していた時代は、髻の中に宵彿を秘したが、天辺の穴が小さくなり月代が広くなって、やがて受張りが張られ髻を解くに至って、冑佛は髪中に移行したと考えられる。
 「松斎髪中の霊像」と記される雄山寺の聖観音を、髻観音と呼称したのは、髻に納めた古い風習を伝えるものであろう。
 髪中に佛を秘する例として、『水沢市史』資料「安永風土記御用書出」の一節を附記する。


   一小名 虚空蔵小路
   一勧請 誰勧請と申儀并年月共二相知不申候得共松浦佐衣姫守本尊之由申伝候
    住古当郡上葉場村掃部長者妻邪見放逸なる女にて大蛇と罷成人を煩し或ハ大
    雨降洪水等仕五穀不実四民相歎候二付右大蛇二美女を求め犠二供へ守護神に
    祭り申候ハバ禍逃れ可申と伊沢郡司兵衛尉と申者中老肥前国松浦里より右衛
    門美女を求め松浦佐衣姫と名付犠にそなひ候所此姫幼き頃より虚空蔵一杯常
    弐髪の中へ結込信仰仕経を誦み呪を唱申候二付大蛇姫を呑事相叶不申毒蛇忽
    角牙落候由申伝候右虚空蔵堂先年ハ駿河様御居館二被建置候由御座候所御
    先祖伊達武蔵守宗利様御代御居館西浦に被相建置候事
   一境内 南北三拾四間三尺東西二拾六間壱尺 一堂
   一本尊 金仏坐像 御長壱寸八分位 作者相知不申候事


       (イ)冑の中


      
南無頂上佛面除疫病
      二 月 堂
     南無寂上佛面願満足



 この御礼は、甲冑師三浦公法氏が、鉄錆地六十二間筋兜を修復中に発見されたものである。受張りを取ると、鉢裏の前面に、金糸の織り込まれた錦織の小袋が膠にて貼り付けられ、鉢裏の後には、江戸中期の早乙女家春の銘が刻まれていた。
 所有者の承諾を得て、三浦氏が錦織の袋をあけてみたところ、前述の御礼が発見されたのである。紙面に記された、頂上佛面、寂上彿面とは、十一面観音の頭頂にある彿面のことで、兜を造らせた武士の十一面観音への信仰が窺える。
 三浦氏の考察によると、烏帽子形等の兜であれば、一〜二寸の小像を袋に納め、受張り内部の鉢裏に貼り付ける方法は充分可能である。
 故に、冑彿を納めた方法として、一つはから髪中への流れと、次に、受張りと鉢裏との窒隙が広い冑に於る三浦氏の推察された流れとの、二つの手法が考えられる。


                   四、あとがき


 私には、研究主題の 「冑彿考」の他に、金谷の河村一族の歴史調査が副題としてあった。しかし、冑佛の発見が全国的な広がりをみせると、河村家の歴史への意識は薄れてゆくかに見えた。
 平成六年十一月五日、私は居間のテーブルに、花巻市周辺の地図、花巻市教委から郵送された『花巻市史』第二巻、『花巻市文化財調査報告書(第十四集)』の写し、さらに大迫町教委から送られた『おおはさまの伝説』の写しとを、それぞれならべて眺めていた。
 胡四王神社、雄山寺、亀ケ森城、この三部の資料は、互いに意図してコピーされたはずもないのに、その紙面の右に、いずれにも川村氏についての記述があった。
 『吾妻鏡』を調べてみると、文治五年八月十二日の条に、次の記述がある。


   一昨日合戦之時。千鶴丸若少之齢而入敵陣発矢及度々。又名謁云。河村千鶴丸云々。
   二品始令聞其号給。仍御感之餘。今日於船迫駅。被尋仰其父。
   小童為山城権守秀高四男之由申之。依之。於御前俄加首服。
   号河村四郎秀清。加冠加々美次郎長清也。


 相模の河村秀高の四男千鶴丸は、頼朝の奥州攻めに参陣し、阿津賀志山攻防の後、御前に於て加々美次郎長清を烏帽子親として元服、河村四郎秀清と号した。更に軍功に依って、岩手・志和・稗貫の三郡に所領を賜わり、岩手県志和郡大巻の地に居館を構えた。
 テーブルの上に、冑佛が発見された場所に丸印をつけた地図が広がっている。花巻市周辺の一地域に、総ての冑彿が集まっている。
 そこが、河村四郎秀清の所領だった。
 やがて時代が下って、南朝方に与した河村氏は、元中元年河村秀定の孫秀基の代に、大巻の地から志和郡佐比内村神田へ居館を移し、応永三年、同地に熊野権現を勧請して鎮守とした。
 熊野神社は、紫波町佐比内字神田に現存している。神社の麓には、河村四郎秀清を祖とする神田館主川村喜助の末裔が、今も住している。
 大正三年四月三日、紫波郡役所に報告された『熊野神社宝物調書』の二番目に、次の記述がある。


    熊野神社宝物調書
    品名
     観音立像
    作者伝来
     作者不明、佐比内村神田館主川村喜助代々ノ信仰ニシテ出陣等ノ場合ハ髪中ニセリト云口碑有


  奥州の冑彿の分布と、河村四郎秀清の所領が重なり、更にその子孫から家伝の観音立像が現われるとは、思いもよらなかった。
 ここに於て、追い求めていた冑佛と、河村家の歴史とが、左右の掌を合わせたようにぴたりと一致した。  


                   (平成六年十一月三十日 完)



(1)訂正国史大系 吾妻鏡第一(三九頁)発行所 吉川弘文館
(2)日本の絵巻12 平治物語絵詞(一六頁等)発行所 中央公論杜
(3)花巻市教育委員会編 花巻市史 第二巻 (三七七〜三八〇頁)発行所 国書刊行会
(4)新全国歴史散歩シリーズ3 新版岩手県の歴史散歩(七〇頁)発行所 山川出版社
(5)三訂版 木曽−歴史と民俗をたずねて1(三七四〜三七六頁)発行所 信濃教育会出版部
(6)訂正 日本甲冑の新研究 上巻(七二貝)著者 山上八郎 発行所 飯倉書店
(7)富岡市指定文化財資料 鯰尾の兜付守神 富岡市教育委員会
(8)川中島古戦場の典厩寺(パンフレット)
(9)盛岡三十三観音巡礼記(三一〜三二頁)著者 高木弥三郎  
(10 盛岡三十三観音 十八番札所十 劫山正覚寺参拝のしおり 発行所 正覚寺
(11)早池峰草紙 おおはさまの伝説(二四七〜二四九頁)編集・発行 大迫町教育委員会
(12)花巻市文化財調査報告書(第十四集)(七〜一四頁)発行所 花巻市教育委員会
(13)日本歴史五一二 「髻の綸旨考」 (七九〜八一頁)発行者 吉川弘文館。
(14)水沢市史3近世(下)(八七七頁)発行 水沢市史刊行会。
(15)神奈川県立歴史博物館学芸員 鳥井和郎氏の御教示による。
(16)注1に同じ (三四四頁)。
(17)川村家の歴史 (六八頁)著作並発行者 川村章一。




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