波(抄)
谷島瑤一郎(筆者・21歳)
(抜粋)
窓に、空をすべる鴎がみえた。
ぼくはあわてて、つぎの停車を告げる、白いボタンを押した。
やがてバスが止まって、海のみえる町に着いた。この町は三度目だから、つよく鼻に匂う潮の香がなつかしかった。薄蒼い排気ガスのなかをバスが走り去ると、胸の湧くような潮風のなかを、記憶にあざやかな家々の立ちならぶ砂の道に向かって歩きはじめた。
晩夏の光をうけて、家なみのうらに盛あがる丘の緑が、空に染めぬいたような異様な美しさを見せている。
通りには一人もいない。
町は変わっていなかった。
ぼくは記憶のスクリインへすべりこんでゆくという期待に、胸があつくなって、足を止めた。
十歳の夏、あのトタン屋根の上に立ちはだかっていた、入道雲。庭の芝生に、いちめんの青い花がゆれていた。まぶしい潮風。まつ毛にひかりがやさしくからみついて、ぼくは笑うように眼をほそめた。
軒さきに燦めく、緑の、大きな硝子玉。
『おかあさん、これ、なに?』
『浮子よ、網につける、う、き』
空を背に、母の白い顔と、ちいさなぼくが映っていた、緑の大きな硝子玉。
鴎の呼びあう声がきこえる。
昔と変わっていない。
(後略)
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