水晶幻想(抄)
                                 谷島瑤一郎(筆者・23歳)



                   (抜粋)
 岬の端に無人燈台があった。
 それは月に二・三度思い出したように沖を通る貨客船のための燈台である。
 その崖下に、白い処女地のような砂浜と、荒磯のひろがる壮麗な景色とが、真昼の海にひらいていた。
人の姿は見えない。ただ、波の散る音が底の方からしずかにきこえてくる。
 彼は崖の端に立って、青空に身を染めるように背のびすると、一息胸ふかく光を吸った。
 さわやかな風にふれて、滲んでいた肌がさっと晴れる。
 砂浜を取りまく岩場に、白い波紋の縁飾りをつけた巖の苺が、そこかしこ散らばって、波の畝に蒼い実をみのらせている。
 うつくしい、と思わずつぶやき、彼は顔をしかめた。自然を賛美するなど、彼には思いよらぬことだったからだ。
 当時の彼は、眼鏡の奥の眼光が透き徹る秀才で、理論物理学研究所きっての気鋭の研究員だった。この四月に、彼は非局所場の理論にあたらしいメスを入れ、素粒子間の対称性を解明し、停滞ぎみの学会に、若々しい朝日のように躍り上がったばかりだった。
 その彼にとって、海は、夥多で、統一に欠け、やがては彼を飲みこもうと渦をまく蒼い生きもののように感じられる。自然が統一され額縁を与えられて、絵画に結晶したとき、ようやく彼は、うつくしい、と安堵して言うのだった。
 しかしこの岬の一帯には、ふしぎな、身を潔めるような霊気が流れている。
                       (後略)



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