2001. 9.19

鬼 穴
2001年9月16日(日)福島県田村郡滝根町の「あぶくま洞」を見学して、
入水鍾乳洞」へ行こうとした時、「鬼穴」がある事を知り、名前に惹かれて寄り道する。
仙台平キャンプ場のすぐ脇に立て看板があり、ここから下っていくようだ。
看板には次のようなことが書かれあった。

多田鬼丸が戦時食糧軍資金金銀宝物など多量に洞内奥深く貯えたと伝えられている。田村麻呂の将兵に敗れた多田鬼丸は最後にこの洞内で全軍の指揮をとったが及ばず、妻幸姫と共に自刃したという。』

多田鬼丸?「鬼」ではなかったのかぁ?
田村麻呂って奥州征伐に来た、坂之上田村麻呂の事だよね??やっぱり「鬼」なのか??
鬼丸は鬼なのか人間なのか、鬼穴とは一体どんな穴なのか.....。
疑問を膨らませながら仙台平東斜面を降りていった。
下り始めてしばらくすると、大滝根山方面との分岐点で、鬼穴はそこからすぐだった。

鬼穴目指して歩き出す 「鬼穴」発見!!
仙台平キャンプ場の管理棟脇を下る。 ひっそりとした「鬼穴」に到着。

「鬼穴」には見落としそうな看板に「鬼五郎と幡五郎」の話が書かれてあった。
鬼五郎と幡五郎
むかし、むかしのこと..
早稲川の里に,鬼五郎と幡五郎という兄弟が仲良く暮らしていたそうな。
兄は、この里の長で武勇に優れ、十人力の怪力の持ち主で、
あぶくま一体を治める大滝丸の部下頭を務める鬼五郎。
また一方の弟は争い事を好まず田畑に精を出し兄の良く守り里人にも優しい幡五郎。
 そんなある時、朝廷が、税を差し出すよう追ってきたそうな。
大滝丸は、先祖伝来の土地や、人々の暮らしを守るために朝廷の命令を断り続けたそうな。
 これに怒った時の将軍坂之上田村麻呂は、この地に攻め込んできたそうな。
最初こそ地の利を生かした戦法で、敵を苦しめた大滝丸であったが、
じりじりと後退し、仙台平まで追い詰められてしまったそうな。
最後の時が来た事を悟った大滝丸は部下に「明日は決戦じゃあ」と伝えた。
其の夜、鬼五郎はひそかに幡五郎を訪れ自分が大滝丸に従って死ぬであろうことを伝えた。
「お前が生きのびてこの早稲川の里を立派に守ってくれ
わしは死んでも鬼となって、この地が栄えるのを見守ろうぞ」二人は堅く手を握りあったそうな。
戦は大滝丸の敗北で終わり大滝丸と鬼五郎は隠し砦の鬼穴で自決したそうな。
再び平和になった早稲川の里は田んぼが黄金色に波打ち、
刈り取りを待つばかりになっていたそうな。

「...そうな。」の連発でちょっと読みにくい。
ここでは「多田鬼丸」は出てこない。「大滝丸」と言う人物がでてくる。?
よく見ると「多田鬼丸(ただおにまる)」と呼ぶのではなく、「おおたきまる」とも読める。
話の内容からしても「多田鬼丸」と「大滝丸」はおそらく同一人物なのだろう...。
(....って言うか、何故違って書いたのか疑問。)
鬼穴入り口−怖くて入れないゆみちん
「鬼穴」入り口

少し入ると陽が届かず真っ暗になった。
照明は車のキーホルダーに付けているマグのソリテールライトしか持っておらず、
明かりのない「鬼穴」ではあまりにも頼りなく、照明の役目を果たせなかった。
手探り状態では危険かなと判断して戻ることにした。
後からわかったことだが、この穴は「あぶくま洞」につながっているらしい。
鬼穴の様子 その1 鬼穴の様子 その2
鬼穴入り口から数メートルの様子

・明治の頃に書かれた「郷土史」には、鬼丸は賊魁とされ、妖術を使い雲、霧を呼び陽の雨を降らせ
激しく暴れ回ったとあるようだ。
・「田村郡郷土史」には、鬼丸は達谷窟(鬼穴)を根拠地にして賊を集め悪事のかぎりをしたが
坂之上田村麻呂に滅ぼされたとあるようだ。
・古老から聞いたとされる「あぶくま洞・入水鍾乳洞」では、
時の権力に抗し、坂之上田村麻呂の軍勢との戦いで敗れ
達谷窟の釣瓶落としの財宝を投げ落として自害し果てる筋書きであり、
古老は鬼丸の末期を悲しい目で「むごい最後だった」と言いきった。とある。
(いつ聞いたか不明だが、この話は1000年以上前の話しなのに....。)

公の記述と、鬼穴の看板、古老の話とでは伝説に食い違いがあるようだが、公の記述よりも
看板や古老の話の方がしんみりくる。

貴重な鍾乳洞を天然記念物の指定、保存など、官、民協力して自然をを守る姿勢が
この町の印象だった。


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