※※※貨幣について考える※※※

(読者からの質問と回答)


ホームページをお持ちの楢篠様から下記のメールを頂きました。

1通目:2005年1月21日 20:27:51

読ませていただきました

 楢篠と申します。読ませていただき現在は納得する面ばかりですが。私自身貨幣論を書いています関係から、より経済を知りたいと思い色々なサイ トを訪ねています。ただ現在私自身はマルクスが間違えていたと考えています。

その間違いの中から今までの経済論及び貨幣論も書かれてきたのではないかと考えています。

そして現在闇の中に入ってしまい、暗闇の中で経済学が出口を探しているのではないかと考えています。

ちなみに私のホームページを案内させていただきます。グーグルで楢篠と検索していただければ分かるかと思います。


2通目:2005年1月25日 17:17:44

読ませていただきました。貨幣が不用というのではなくペイパーマネーが必要ないということではないかと思いますが。

単位としての通貨が必要ではないですか。給与という報酬をもらいその範囲内で生活をしなければならないと思いますが。

貨幣の中の交換・価値尺度という形は人間が存在する限り必要かと思いますが。問題は蓄蔵にあると感じます。蓄蔵をなくした社会が本来の社会であ る気がしますが。

蓄蔵が持つ意味。それが資本主義社会の最大の悪しき点かと思いますが。

蓄蔵をあくと決めた時資本主義社会の崩壊があると考えますがいかがですか。

楢篠


以下回答

ご質問ありがとうございます。楢篠様は「雑感」の章にある「貨幣は不要に?」の段落をお読みになりこのメールをお送りくださったようです。

以下その段落における趣旨を補足説明させていただきます。

まず古代の社会では生産はある程度分業されていたものの、貨幣のない「物々交換」でした。人口がさほど多くなく、分業の程度もさほど細分化されていない社会では、それで十分経済は成り立っていました。

しかし人口が増えたり、文明の進歩もあって分業の度合いが高くなってくると、(当HPの「お金とは何か2」の章で述べたように)「欲望の二重の一致」の困難さをクリアして商品の交換を成立させることは中々困難になってきます。これを解決する手段として貨幣が生まれたわけです。(「お金と経済」の章における三ツ谷誠さんの「価値の貯蔵」も参照してください)

さて今日では、ネットワークとコンピューターの発達によって、我々同志の欲求をマッチングさせることはさほど難しくは有りません。コンピューターのない社会では確かに「欲望の2重の一致」を実現させることは多大な手間・時間がかかります。しかし例えば現在でも「YAHOO オークション」では、中古の自転車が欲しい人はそのオークションサイトにて「自転車」を選びクリックすれば「中古の自転車を譲りたい人達の提示条件」が一覧できます。そして自分の納得できる内容のものがあれば申し込みすれば良いのです。

もう一つご質問の趣旨である、そのような状況下であったとしても「やはり『交換・価値尺度である貨幣』は必要なのではないか」とのご指摘です。おっしゃるように、前述ヤフオクでも提示条件はやはり貨幣の「金額」で行われます。

しかし、あくまで理論上のお話ですが(実現できるかどうかは別にして)、貨幣を介在しない交換は不可能では有りません。色々考えられますが、例えば下記のやり方です。(ヤフオクのように需要と供給のマッチングをしてくれるシステムを、ここではとりあえずマッチングシステムと呼ぶことにします。)

1.お米農家であるAさんは中古のパソコン(以下PC)を欲しいと思いました。そこでマッチングシステムに「欲しいもの=中古PC一台」「提供できるもの=お米○○キログラム」等と入力します。

2.野菜農家であるBさんは収穫時期なので人手が欲しいと思いました。そこで「欲しいもの=人手:備考何日間、何時間程度」「提供できるもの=野菜○○キログラム」等と入力します。

3.また、新しいPCを購入したサラリーマンのCさんは中古のPCを人に譲っても良いと考えていました。PCの対価としては食べ物か事務用品が欲しいと考えています。Cさんは「欲しいもの=食料OR事務用品」「提供できるもの=中古PC1台」と入力します。

4.フリーターのDさんは仕事をして食べ物が欲しいと考えています。そこで「欲しいもの=食料」「提供できるもの=労働」と入力します。

5.上記のように登録がなされると、マッチングシステムは

(1)Aさんに対してはCさんのような「中古PCを手放して食料などが欲しい人のリスト」を提示

(2)Bさんに対してはDさんを含めて「働いて食べ物が欲しい人のリスト」を提示

(3)Cさんに対してはAさんを含めて「食料または事務用品を提供して中古PCが欲しい人のリスト」を提示

(4)Dさんに対してはBさんを含めて「人手を必要とし、食べ物を提供できる」人のリストを提示します。

そして例えばCさんはリストの中から自分にとってより条件の良いもの(例えば提供されるお米の量等の条件)からマッチングの相手としての第1希望、第2希望、第3希望などをを登録します。その上でマッチングシステムのコンピューターは最終的にマッチングの取引相手を決めて当事者に通知します。

このようにコンピューターとネットワークの発達した現在では、貨幣なしでも「交換」は不可能では有りません。

古代の物々交換の時代にも「物と物との交換比率」は存在しました。物とは人間にとって使用価値・効用があるからこそ「交換」されるわけですが、その使用価値を捨て去り、「交換比率」すなわち「価値尺度」の機能のみに特化して、「交換」の効率を向上させたのが貨幣です。交換しようとする対象物(物やサービス・労働など)を一旦金額数値に置き換えないと交換できないような錯覚に陥ってしまうのは、我々が現在の貨幣制度に慣れきってしまい、絶対視しているからだと思います。

この件に関しては、下記入門金融(有斐閣)の一部抜粋(一部分かりやすく修正)をご参照いただければより深くご理解いただけるかと思います。


入門金融(有斐閣)第7章第2節 「貨幣の機能」より引用

・・前略

次に、価値尺度財としての役割は、貨幣が、財の持っている価値を計る手段、つまり単位としての機能を果たすことである。しかしこれは、何も貨幣に特有の機能ではないことに注意されたい。例えばりんご5個を1000円で購入したとしよう。このときりんごの価格をPで表すとすると、価格の単位は何であろうか。実は円ではないのである。日常の取引で我々はP(価格)=1000÷5=200 という演算をすることから、「りんご1個を200円で購入した」と表現している。したがって、円で表示されているもの(総額1000円)をりんごの個数で割っているのであるから、価格の単位を[yen/apple]とするのが最も正確な表示法であろう。

*****中山による補足*****

りんごの値段とは、「りんご1個あたりの価格」のことです。これは上の事例で言えば総額(1000円)をりんごの個数(5個)でわれば求められます。

別の事例で、「速さ」の単位は、進んだ距離をかかった時間で割って求められます。2時間で60KM進めば速さは30KM/時となります(60KM÷2)。このときの単位「KM/時」は「1時間あたりの進んだ距離」を意味します。同様に「りんご1個あたりの価格」つまり「値段」の本来の単位は[yen/apple]である。と説明しています。

 

****入門金融(有斐閣)に戻る*****

・・・・(中略)

より明確にするために「みかん10個でりんご5個を購入した」(=「みかん10個とりんご5個を交換した」)としよう。このときりんごの価格Pは2であり、その単位は[ミカン/リンゴ]である。つまりミカンで表示したリンゴの価格である。

・・・・・(中略)

歴史的にはおそらく物々交換経済でまず、[ミカン/リンゴ]あるいは[イチゴ/バナナ]といった多数の価格が並行し、その後、石、貝、金などの貨幣としての適性をみたしている財が共通の尺度して置き換わっていったものと考えられる。

以上引用終わり


楢篠さんは「給与という報酬を(お金で)もらい、その範囲内で生活しなければならない」とおっしゃっています。

上記引用したとおり、物々交換の世界では、物と物を交換したときの交換比率で物の値段が決まります。「みかん10個でりんご5個を購入した」ならば「ミカン10個=リンゴ5個」

「リンゴ5個とお米1キログラム交換した」ならば、「リンゴ5個=お米1キロ」

「お米1キロでガソリンが5リットル買える」ならば、「お米=ガソリン5リットル」

こういった取引価格(交換比率)を連立して、

ミカン10個=リンゴ5個=お米1キログラム=ガソリン5リットル

等のように財の数だけいくらでも方程式を長くできます。この方程式をパソコンのプログラムに入力しておけば、たとえお給料をお金でなく、何らかの財(使用価値を有するもの)でもらったとしても、給料の範囲内で生活していくことは容易に管理できるでしょう。実際に江戸時代の武士は報酬をお米でもらっていました。ですから単位としてお金は絶対必要であるかと言えば、そうではないのです。ただあったほうが、パソコンなどを使わなくても直感的に自分の財布を管理できるとは思います。

最初に戻りますが、雑感「貨幣は不要に」の段落で私が言いたかったのは、「本当に貨幣をなくしてしまおう」と結論付けているのではなく、「貨幣の存在理由自体がコンピューターとネットワークの発達で必然ではない時代になった。この点からも我々は「「お金」と経済」のあり方をもう一度見つめなおすべきなのではないか」と言うことです。

楢篠さんは貨幣論を研究されているようですが、是非当HPの参考書籍・リンク集で照会している加藤敏春さんの「エコマネーの世界」をご一読されることをおすすめします。加藤氏はエコマネーの理論に到達する前に、さまざまな貨幣論、経済理論を研究され、注目すべき貨幣理論についてはそのエッセンスを同書の中で紹介されています。

また、楢篠さんは

「蓄蔵をなくした社会が本来の社会である気がしますが。

蓄蔵が持つ意味。それが資本主義社会の最大の悪しき点かと思いますが。

蓄蔵をあくと決めた時、資本主義社会の崩壊があると考えますがいかがですか。」

とおっしゃています。お気持ちはわかります。

私も貨幣制度と資本主義の組み合わせは弊害が多いと認識しております。

「お金」と経済の章で述べたように、使用価値や効用は本来、生産・ストックできる量が限られています。自己増殖する性質を持つ「資本」は自らの資本を貨幣・数値化することで無限の発散を図ります。無限に発散しようとする資本主義と、限りのある使用価値・効用との間に不均衡が生まれ、その反動として過剰な経済変動(バブルやデフレ不況)がおきるのではないかと思っています。

「経済活動」とは本来各自が「使用価値・効用」を生産し、それを社会全体で効率よく交換しあうことのはずです。しかし、もともと「交換を効率よくする手段」として登場した「貨幣」を絶対視しすぎるあまり、「『貨幣』を増やすこと」が第1目的になってしまい、それを前提として築き上げられたのが現在の資本主義経済だと思います。

しかし私は楢篠さんのように必ずしも「蓄蔵が悪」とは思いません。古代の物々交換の社会でも、遺跡に出てくる高床式倉庫のようにお米などを蓄蔵しておく蔵などは存在しました。自分の老後や将来世代のための貯蓄、蓄蔵は必要だと思います。「お金」と経済の章で述べたように、例えばお米を何年分も貯蔵したとしても今年取れた新米のほうがおいしいに決まっているので、貯蔵されたお米はその価値を減価します。我々が「貨幣」を第1目的ではなく、「使用価値・効用そしてその効率の良い交換」を第1目的に経済社会を再構築するなら、適切な蓄蔵の量もおのずと定まってくると思います。

 

   この章の内容についてご感想・ご質問

 ホームページへ

テーマ一覧へ

 

 


 Since July 2000.

Copyright(c) 2000 Nakayama Nozomu All rights reserved.