「お金」と経済

 (資本主義経済と貨幣)

資本主義経済においては、経済主体は自らの富を増殖させるべく無限の運動を繰り返します。そんな資本主義経済の本質を見事にに表現した下記の一文をご紹介します


※作家村上龍さんが主催しているメールメディア(JMM)に掲載された三ツ谷誠さん(東京三菱証券 IR室シニアマネージャー)による投稿文です

=債権放棄についての投稿文から抜粋=

小段落タイトル「価値の貯蔵」

(・・・前略)

(「貨幣」登場以前の物々交換の世界を指して、)
だが、単純な財と財との交換は、その財が不変性を持たない限り、限界に突き当たる。端的に言えば魚も麦も腐るので、「価値を保存できない」のである。ここに不変性を象徴する「貨幣」が登場する余地が有る。

「貨幣」による「交換」を前提にすることにより、我々は初めて「価値の保存」に成功する。保存された「価値」は、任意の段階で「交換」の現場に取り出され、その「価値」を保有する人間に「財」や「サービス」を提供する。

これが、「貨幣経済」の本質であり、市場主義の本質である。

だから蓄えられた資本とは、試みられた労働の貯蔵庫でもある。マルクスや古典派経済学者たちが、一瞬、その顔を覗かせる。

 小段落タイトル「貯蔵された価値の消滅」

個人個人がその「労働」を交換の現場である「市場」で、不変性を持つ「貨幣」に置き換えた段階で、・・(中略)・・「経済の運動主体そのもの」となった貨幣を、自らの企図のために使いたいという動きが出てきた時に、貨幣自体を流通させることに「価値」が生じた。

そして「利子」とは人間の世界に「時間」の概念が導入され、貨幣や交換が人間の欲望を無限に引き出し、そのことによって永遠の増殖を始めた時、誕生した貨幣経済の嫡子である。

(後略・・・・)


このホームページでは、いままで、下記のことを説明しました。

@「貨幣」は交換から生まれた交換のための道具である。

A「貨幣」の価値尺度としての価値の大きさは、絶対的な基準のあるものではなく、あくまでも「財やサービス」すなわち「使用価値」との交換比率によって可変的に表現されるに過ぎない

B経済の目的は、人にとっての「効用」「使用価値」をいかにスムーズに効率よく再配分(交換)するかにある

 以上の事柄を念頭において、下記の思考実験をして見ます。

 この実験は「お金」と「資本主義経済」の関わりあいを考察するために、まず「お金の存在しない資本主義経済」をシュミレーションし、現在の「貨幣制度の下での資本主義経済」と比較検討するものです。

 


 

前提条件

@「貨幣」のない物々交換の世界

A個々人が自らの富を蓄積しようとする資本主義的な経済

 すなわち、「貨幣」のない資本主義的な経済です。

 

(1)経済主体は自らの富を増殖させるべく無限の運動を繰り返します。すなわち経済活動を行いますが、三ツ谷氏の指摘の通り、「財」と「財」との交換はその財が不変性を持たない限り限界に突き当たります。食料品であれば、賞味期限があれば、腐りもします。お米を大量に倉庫に蓄えても、今年取れた新米のほうがおいしいに決まっているので、倉庫にストックされたお米の価値は、相対的に下がります。また、大きな倉庫に自動車を大量にストックしても、燃費やスタイルなどの面で何年かたてばその財は価値を低下させます。おのずから経済主体はあまりに巨大な使用価値のストックをためらうでしょう。

すなわち、富を「使用価値」で蓄積しようとしてもおのずと蓄えられる価値の大きさには限界があるわけです。これは三ツ谷氏の指摘の通りです。

(2)ここで「貨幣」が登場するとどうなるでしょうか?これは現在の資本主義経済の姿になります。価値の蓄積は「貨幣」の単位で数値化され、一見無限大に蓄積可能になったかのように思われます。しかし、本当にそうでしょうか?

(3)世の中全体で形成できる「使用価値」のストック量に限界があるのに、「使用価値」同士の交換の道具でしかない「貨幣」を無限大に近くストックしたらどうなるでしょうか?おそらく「貨幣」の価値自体が危うくなるでしょう。(前述のように貨幣の価値の大きさは絶対的なものでなく、「使用価値」との交換比率で決まる可変的なものです)

(4)また、「お金」の本質を「債権・債務」として捉える考え方もご紹介しました。経済主体の数と能力を有限と考えれば、その債務の負担能力も有限です。つまり自己の富の蓄積を「貨幣」の形で無限に行おうとしても、それは一方では債務(金融資産が端的な例です)ですから実は限界を持たざるを得ないはずです。

(5)もう一点、生産活動が生み出す付加価値は需要があって初めて(所得として)実現するとも述べました。そして需要は有限であるとも述べました。だから本来は価値を生み出すことによって蓄えていく富の蓄積は有限なのです。


私の現在抱いている大雑把なイメージでは、

経済主体が自己の利益と富の最大化を図る「資本主義的経済」と、「貨幣制度」の組み合わせのもとでは、有限である「需要」「効用」「使用価値」と、数値上無限に発散可能な「貨幣」との間に不均衡が生じます。このため本質的な不安定性があります。「使用価値」と「貨幣」との間の不均衡が(現状の資本主義的な)経済活動により拡大すると、インフレが起きたり、不況が起きたりするのです

我々は自らの経済活動によって生み出している「使用価値」「効用」が、他者との間で効率よく交換できれば良いのです。それが本来の経済学の目的であるはずです。にもかかわらず、交換のための道具でしかない「貨幣」の増殖を目的の第一義に置いた結果、経済が本質的な不安定性を持つこととなったのです。

 

私はいまこんな考えを漠然としながらも持っています。

 

これについてはもっと深く思考を掘り下げていこうと思っています。


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