記事No | : 1618 |
タイトル | : Re^4: 神秘主義・・・再現性 |
投稿日 | : 2012/08/16(Thu) 09:44:30 |
投稿者 | : 桃青 |
某M教のワンさんは
ワンさんが会得した方法を実行すれば、誰でも御霊(の導き)を受けることができる。
と、言われるが、何らかの神秘体験をしたかたの中には、ワンさんのように思われているかたは、実は珍しくない。
某M教は、教祖の神秘体験からはじまった宗教であるが、
某M教が定める方法(儀式等)を体験しなければ、御霊は受けられないと、説いている。
某M教教祖もまたワンさんやその他、神秘体験をしたかたによくおられるような、
「なんらかの方法を行えば、誰でも自分が体験したのと同じ体験をすることができる。」
と、考えたかただったのだろうか?
もし、そうなら某M教教祖やワンさんの直感は正しい。
何故なら、ある一定の条件下では誰にでも幻覚(視覚、聴覚、知覚等)が起きうることは、科学実験によって証明されているからである。
「ある方法を行えば(一定の条件下で)神秘体験が必ず起きる。」と某M教の教義やワンさんが力説すればするほど、
それは、本人達の思惑とは懸け離れて科学的実験の正しさを証明するものになって行く。
神秘体験の実態が、幻覚であるからといって、神秘体験に値打ちがない。
とは思わない。
幻覚によって何を得たか、の「何」に値打ちがあって、
でも「何」を彩るものは、やっぱり「私」なんですよね。
某M教の教祖は、「個人の導きは個人が受ける。」「教会の導きは教会幹部が受ける。」というようなことも言っていて、
アンチから「教会幹部が教会を私しようとするするものだ。」と、批判されているが、個人的な事柄を熟知しているのは、個人しかいないし、教会の諸事情を幹部以上に知っている者はいないのだから、
この言い分は、御霊の導きの限界を直感していたという点では、正直な発言ではないかと、思う。
が、神秘体験に「私」以上のものをもとめる人々は、啓示とはそんな程度のものか、と、がっかりするかもしれない。
どんな神秘体験も体験をする「私」を超えるものではないのです。