記事No | : 1649 |
タイトル | : 在家の信仰 |
投稿日 | : 2012/09/18(Tue) 12:15:38 |
投稿者 | : 桃青 |
> うちの宗派は在家のシンボル的な意味もあり数珠は使いませんが、
そう、在家!!
そこなんですよねー。
仏法も在家と言われるひとびとが増えなくては、どうにもならない。
いや、在家と意識しなくても仏法に生きる人々が増えなくては、
いや、仏法と知らずに、仏法に生きる人々が増えなくては、
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」
という世界を確かに見るひとも増えないでしょう。
まあ、でも、在家ばかりでなく、専門職でもそのような世界を確かに見るかたは少ないように思われます。
因縁という言葉は、すごく手垢がついてしまいましたが、
因縁を真っ直ぐに見つめたら、自然と、
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない。」
という世界も見えて来る。。。。はず。なんですけれどね。
> それが縁で仏前にお手を合わせる習慣ができるのは良いことですね。
そうですね。
まずは、「仏」というものの存在を知らないと、発露するものも、発露しないこともあるでしょうし・・・。
> よく読誦中にジャラジャラやられる方がいますが、あれはいただけません、特に唱題中は気が散ります。
念珠を揉む、というあれですね。
こちらでも、「念珠というものがどういうものか、良く考えれば、揉むことなど出来ないはずだ。」
と、注意されます。