記事No | : 1674 |
タイトル | : 余談ですが・・・ |
投稿日 | : 2012/09/30(Sun) 19:47:43 |
投稿者 | : 桃青 |
確かに、どこかで読んだ覚えがある。とネットの内村鑑三の文章を検索しているうちにこんな文章がありました。
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聖書は来世の希望と恐怖とを背景として読まなければ了解わからない、聖書を単に道徳の書と見て其言辞ことばは意味を為さない、聖書は旧約と新約とに分れて神の約束の書である、而して神の約束は主として来世に係わる約束である、聖書は約束附きの奨励である、慰藉である、警告である
(聖書の読方 来世を背景として読むべし 内村鑑三)
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あるかたの講義の中に、時々キリスト教を連想させる表現が飛び出して、
「あれ?」と、思うことがあります。
前ふりに「来世がなく、今世だけで終わってしまうとしたら、何をしてもよいということになります。」
と言う言葉で、話が始まるのも気になります。
久遠実成の仏と同じ寿命なのですから、「としたら」は、無いでしょう。と、私は思うわけです。
仏の寿命の長大なるを知って、「たしかにそうだ!論理的にも、また現実の事象に照らしてもまったく破綻はない。その通り!」と随喜しているところへ、
「としたら」と言われると、がくっとします。
この文章を読んで、ふと思いました。
そのかた内村鑑三に説き方を学ばれたのでしょうかね?