記事No | : 1770 |
タイトル | : 理解と尊重、 |
投稿日 | : 2012/11/28(Wed) 11:58:44 |
投稿者 | : 桃青 |
大学で教鞭をとる学者のかたが長年の研究対象について、その理解を求めるブログに発表された文章なので、そのまま出して考察の対象とさせていただこう。
「・・・本来、理解を深めるという理知的・好意的精神は、相手を尊重する姿勢があるはずである。しかし、いのちのことば社の冊子がこの本について、「違いを学ぶ」、「違いをまわりにしっかり伝える」ためにと紹介しているように、従来の批判本の域を出ていない印象を受けるのが、残念である。」
某M教と、プロテスタントについて、
違っている点を、違っていると書くと、それが某M教への批判になるのだろうか?
日頃「他の教会とは全く違う唯一真の教会。」であることをプライドとしておられるのに、他の教会が「某M教とプロテスタント教会の違うところ」を発表すると、「某M教会を尊重していない、某M教に対して好意を持っていない者の研究だ。」と、文句をつける。
某M教会はレッスン初期の段階から、折に触れて、このように繰り返す。
「某M教を知れば(理解すれば)、誰でも某M教教会員にならざるを得なくなる。」
「某M教を知って、某M教会員にならない者は(サタンとか邪悪とか、神に背く者とか、)である。」
これを繰り返し言われ続けるせいなのかどうか、某M教会員のかたは、殆ど全員
「某M教を理解したら、某M教会に対して好意的になるはずだ。」
と、思われているように見える。
相手の言わんとすることを理解することと、
相手の言うことに賛同できるか、どうかは、違う次元の話である。
相手を尊重することと、相手の主張に賛同できるかどうかは、違う次元の話である。
相手の云う事が理解できても、賛同できないこともあるし、
相手を尊重していても、相手の意見に賛同できないこともある。
半世紀近く学者として研究発表して来られたのなら、当然そんなことはよく御存知であろう。
と、思われるのだが・・・。
「相手の主張を理解する」と「相手を尊重する、相手に好意を持つ」は、同義ではないのだが、これを同義と捉えているひとは、某M教会員ばかりではない。
しかし、相手の主張を理解することと、相手を尊重し、相手に好意を持つこととは違う次元の話なのだ。
ということが解っていないと、何かについての論議など本当はできないのだ。
確信犯的なのか、無自覚的なのかは知らないが、
「相手の主張を理解すること」と、「相手を尊重すること、相手に好意を持つこと」を同義だと世間に吹聴してまわる人々に惑わされてはならない。