記事No | : 2412 |
タイトル | : Re^2: 大難は小難 小難は無難 |
投稿日 | : 2015/12/13(Sun) 03:44:52 |
投稿者 | : ぽん州 |
> 振り返ってみれば、当時抱えていた大難は形の上では消えましたが、
>消えたと思って喜んだ私はあさはかで、ただ別の大難に姿を変ただけでした。
大変ですね。消えたと思って喜んだ桃青さんがあさはかかどうかは知りませんが
当時 苦しみを逃れて喜んだ ということは興味あります。苦しみのうちに
破滅に向かうのではなく 喜びがあって 別の大難に立ち向かえたと思えるわけです。
桃青さんが どう感じるかではなく 私ぽん州が そう感じるということです。
方便というのは そんなものじゃないでしょうか。
> ただ、大難に対する見方は変わりまして、大難が忌まわしいものではなく
>愛おしいものになり、持ち抱えやすくなった。そういう意味では、
>「大難は小難、無難」になったと言えるかもしれませんね。
私には 正しい意味は解りません。 が 見方が変わった 受け止め方が変わった。
あるいは単に勘違いしていただけだと解った ということかなあ。
苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思合て
南無妙法蓮華経とうちとなえい(唱居)させ給え。
これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給え
(四条金吾殿御返事)
臨済宗恵林寺が焼き討ちにされた時 快川禅師の辞世の句は
「安禅は必ずしも山水を須いず 心頭を滅却すれは火も自ら涼し」です。
これは 臨済宗の公案でもあります。座禅をしたら 火が熱くは感じない
というのではないのです。 まさに 苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき
ということでしょうか。大難は大難として受け取っていく生き方が 大難を小難と
なすことでしょうし その時 大難は小難となっていると 感じています。