記事No | : 1625 |
タイトル | : 断見かと思ったら・・・。 |
投稿日 | : 2012/08/27(Mon) 10:37:41 |
投稿者 | : 桃青 |
以前、某M教のかたで
「自分が死んだら生ごみの日にでも出してくれたらいい。」
と、書かれたかたがいた。
常見を説く某M教の信者にも、断見を持たれるかたがおられるのだな。
常見のウソ臭さを見抜いておられるのか?
それにしては、「永遠の家族」という教義は、深く信仰されているようなところがあるし??
と、思っていたのだが、断見的達観からの言葉では無かったようだ。
これは、某M教が説く常見への信頼が、
「死んだら生ゴミ」という言葉になったのだった。
キリスト教、某M教共に、肉体とは関わりなく存在する個の霊魂を説く。
常見では、死とは、霊魂と肉体との分離を意味する。
某M教の死生観では、死んだら霊魂の溜まり場へ行き、復活の時に理想の肉体を与えられるというのであるから、現在の肉体は死んだら生ゴミだと言うのであろう。
日本人は遺体収集に熱心だが、キリスト教圏では、日本人ほど遺体に拘らないというのも、霊魂こそが個人そのものであり、肉体は現世を過ごすためのウェアだといういう感覚から来るものであろうか?
臓器移植に関しても、日本人は「誰かの身体の一部となって生き続ける。」という捉え方をするが、肉体とは関わりなく個の霊魂が存在するという感覚であれば、肉体は衣服と同様にいかようにもリサイクルできる素材という捉え方なのだろう。
この延長が、ナチスドイツが行ったようにユダヤ人の毛髪からブランケットを作ったり、肉体から油を採って石鹸にするところまで、行ってしまうのかもしれない。
それはともかく
常見を説く宗教の信仰者が、「人間死んだら生ゴミ。」と、言われるのを、断見だと見るのは誤解であった。
同じ言葉でも、それに込められた思いというか、その言葉のよってたつものが違う。
ということを今回もまた、知った。
うん!仏教の縁起の教えは正しい。