記事No | : 1709 |
タイトル | : コミュニティと役に立たない者 |
投稿日 | : 2012/10/24(Wed) 10:23:14 |
投稿者 | : 桃青 |
「教会員になったら一生面倒見ますよ。一生どころか永遠に。」
某M教が言っていることはそういうことですね。
わお!いいところじゃん!!
と、入ってみたら、やがてそれには一つの大きな条件があることに気付く。
それは、
「あなたが、教会の役に立っているならね。」
です。
「役に立っている。」を判定するには合理的なアメリカの宗教らしく誰にでも眼に見えるかたちで解りやすい基準がありますが、ここでは省きます。
愛にあふれた集いも分かち合いも、教会(コミュニティ)の役に立っているひとのためのものなのです。
役に立っていないひとは、要らないひとなので見向きもされません。
見向きもされなかった役に立たないひとが、時々見直されるのは、役に立つひとが少なくなったので、もう一度役に立つひとになってもらおうという時だけのようです。
全員で運営するコミュニティには、役に立たないひとは居ないほうが効率的な運営ができます。
某M教のコミュニティと役に立たなくなったひととの関係には、さすがになんでもハッキリとモノを言い、合理性を追求するアメリカらしさが表れていますね。
さて、国家コミュニティと役に立たないひと、との関係は、どういう関係が望ましいのでしょうか?
某M教流の役に立たないひとは要らないひと。
それも、ひとつの考え方ですが、国家という組織の中にある某M教なら、某M教の役に立たなくなったひとを「役に立たないひとは要らない。どっか他所で面倒見てもらってね。」
と、知らんぷりして、役に立つものだけで楽しくやることも可能でしょうが、国家となるとそういうわけには行きません。
国家社会に役に立たない者は必ず、居るのです。
役に立っているものでも、いつ「役に立たない」立場になるかもしれません。
国家はそういう「社会の役に立たないもの」に対してどう対処するのが、望ましいのか。
これは難しい問題です。
ただ、某M教では答えは決まっています。
「役に立たないものは要らない。どこかへ行って呉れ。」
「役に立たない者は要らない。」
こう思っているのは、某M教会ばかりではありません。
この思いを社会の共通認識としてよいのか、よくないのか。。
さあ、どうでしょう?