記事No | : 2016 |
タイトル | : Re: 宗教的真実 |
投稿日 | : 2013/05/02(Thu) 11:13:38 |
投稿者 | : 桃青 |
某M教の中にも、某M教が説く宗教的真実とは現実乖離の御伽噺だと、承知しているひとは多数おられます。
彼らは現実乖離の御伽噺を真実と信じているひとを「せっかく美しい夢を見て良い気持ちでいるのだから、彼らの夢を醒ましてはいけない。また、そのような権利は誰にもない。」
と、いうようなことを頻りに言われます。
自分とこの教説が現実乖離の夢物語と解っていて、教会員が増えることを願うってどういうこと?
と、現実主義の私は不思議でしかたないのですが・・・。
しかし、
「わざわざ人の嫌がる認知症になってまで、誰かに受持・読・誦・解説・書写する機会を与えてくださった菩薩なのです。」
実際にこう説かれる時、「誰かに」には、必ず認知症のかたを介護する立場になったひとの名が入るので、これは、介護に苦しむ者に対して与えるために用意された言わば美しい夢物語なのではないかと思う。
これを言う御本人が、例えば認知症になった私の母を観て、
「ああ、桃青さんのお母様は、この私に受持・読・誦・解説・書写する機会を与えるために、認知症になってくださった菩薩なのだ。なんとありがたいことだろう。」
とは、決しておっしゃらない。(笑)
つまり、認知症になった母は、私には菩薩でも、そのかたには菩薩では無いとおっしゃっているのと同じです。
それて、仏教的には変じゃないですか?
ひとりの人間の中に全ての人間を観じ、全ての人間にひとりの人間を観じる。
それが一念三千の世界です。
認知症になったひとを「誰かに受持・読・誦・解説・書写する機会を与えるためにわざわざ認知症になってくださった菩薩。」と、捉えるなら、それは全ての認知症になったひとのことであり、誰かとは、これまた全てのひとである。
というのが仏教的には正しい捉え方なのではないかと思います。
認知症もまた人間というものが普遍的に抱える苦の姿と捉えるのが仏教的な捉え方なのではないでしょうか。
そしてそこからは認知症に関わる全ての問題を自分の問題として考え解決して行こうという姿勢も生まれるでしょう。
しかし、「誰か」に、具体的な介護者の名前が入ると話が違ってきます。
「○○家の誰それが認知症になった。それは○○家の問題であるからして、その家の者が一心に唱題し、書写すればよいことなのだ。」
で、留まってしまう。
そこからは、全ての認知症に関わる問題を皆で共に解決していこうじゃないか。という仏教的な姿勢は生まれようがないのではないかと思われます。
実際、介護者の現実的な苦悩を救うのは、性能の良いリハビリパンツ。や、介護保険だったりする。
介護保険というもの、「自己責任」という発想からは生じようがないものでしょうに・・・。
日本人は介護保険を当たり前のように、考えていますが、全てを「個人の行為の結果」と見る自己責任の人間観では、介護保険などというものがあるほうが間違っているのですよ。
熱心に唱題行する○○家の方々も介護保険は使うでしょう。
そして、その教説によってどこか日本と日本人を下に見ている傾向のある某M教のかたがたも日本に住まいする限りは日本の社会制度を当然のごとく利用するでしょう。
そういうことです。