記事No | : 2044 |
タイトル | : Re^5: う○こ祭り |
投稿日 | : 2013/05/17(Fri) 14:31:46 |
投稿者 | : ぽん州 |
> > お袋は腸閉塞だったから、排便コントロールしてたので
> > 下の世話は他人任せ。 で 臭いに関しては どーだったかな
> > 覚えていないけど 臭いと思えば臭いような気もするね。
>
> お母様は、腸閉塞という御事情もあったので、また違うのでしょうが、
> たとえ認知症のかたが仏菩薩であっても、誰かがそのかたのう○この御世話をして、「う○こ、くっさーい!気色悪ーい!」という嫌な思いを引きうけることには変わらないのですね。
>
> 私や皆さんが、認知症になれば、誰かに「う○こ、くさ〜。気色わるーい」という嫌な思いを引きうけて貰わなくては、身を保つことができないのです。
だから僕は、お袋の下の世話なんてやってられねーぞ って ケアマネージャーさんに
言いましたよ。僕の代わりにお袋の下の世話を変わってくれる制度があるなら
菩薩行云々とは別の話と思っています。 幸いにその制度を最大限活用させて
いただけたから、 お袋が仏様なのです。
> 誰かに、嫌な思いを押しつけながら、その誰かに向かって
> 「私は、あなたを法に導くため認知症になったのですよ。」
> と、言えますか?思えますか?
> 私は思えません!!
>
僕が菩薩の道を行ずるためにお袋が菩薩となったのではなく、お袋を仏とみなしていくのは、お袋の中に 仏を見出していくのは
僕のベクトル、僕の勝手です。
> どんなに介護に慣れても、たとえ専門職であってもう○こ祭りに出会えば、気持ちは萎えるものなのです。
だから 萎えないために 制度を利用したり 追い詰められない方策を考え実行すれば良い。
なれない人間にケツの穴を掃除されるより、専門家にやってもらったほうがご母堂も
気持ち良いでしょうし、幸せでしょうから。
> たとえ、仏菩薩のう○こ祭りであっても、う○この形状や祭りの様相が同じであれば、気持ちは萎えるでしょう。
だから 割りきって 他人に(専門家に)任せるべきです。
> そういう気持ちの萎えを汲みとることも、抜苦与楽の菩薩行を目指すのなら、必要なのではないのでしょうか。
こんなところに 抜苦与楽の菩薩行 を持ち出さない。 僕は 訪看さんの手際良さと、
お袋の満足気な顔と、僕のお気楽さと すべてが相まって、 お袋との良好な
関係、お袋の尊厳を保つことができたなあ と思います。訪看さんはプロです。
菩薩行云々なんて失礼です。訪看さんが菩薩であったとしても。
> おそらく、介護保険の制度化に尽力したひとや製紙会社の製品開発のひとのほうが、「わざわざ認知症になってまで、あなたに法に出会う機会を与えてくれた菩薩である。」と、説くひとよりは、そのような介護する立場の者の気持ちの萎え(苦悩)に理解を持って、現実的な解決を模索しているような気がしてきた・・・。
>
> 釈尊は人間の苦しむ姿をみて、法を説かれたはずなのに・・・。
「わざわざ認知症になってまで、あなたに法に出会う機会を与えてくれた菩薩である。」が
間違いかというと、決してそんなことはありません。それで安心を得られて
救われる人がいるなら、それもまた一つの方便でしょう。他人の安心を
異安心と決め付けるのも 釈尊の出世の本懐とばかりは言えない気もします。
南無妙法蓮華経