記事No | : 2050 |
タイトル | : う○こ祭り補足 |
投稿日 | : 2013/05/19(Sun) 23:31:38 |
投稿者 | : 桃青 |
> だから 萎えないために 制度を利用したり 追い詰められない方策を考え実行すれば良い。
> なれない人間にケツの穴を掃除されるより、専門家にやってもらったほうがご母堂も
> 気持ち良いでしょうし、幸せでしょうから。
知っておられるかたには、蛇足ですが、
介護サービスで、毎日の便の処理にヘルパーが通って来ることはありません。
もし、一人暮らしで、下の世話を含めて生活全般の介助が必要になったら、いやおうなく施設へ入居することになります。
ぽん州さんのお母様は、腸閉塞に対する医療行為として、便コントロールのもと訪問看護師のかたがされていたのでしょう。
排便はいつ起きるかわかりませんので、それに合わせてヘルパーが来てくれるなどということは、ありません。
24時間、看護師なりヘルパーなりを自費で雇わない限り、同居する家族が、下の世話を担当することになります。
ぽん州さんは、もちろんそれを御存知で書いておられるとは思いますが、まったく介護保険制度を利用したことのないかたが、誤解されるといけないので、補足いたしました。
また、う○こ祭りというのは、トイレへ誘導して排便させる。あるいは、リハビリパンツの中にされた状態の良い排便の始末を意味しません。
例えば、弄便、あるいは、リハビリパンツ&パットから漏れ出るほどの多量の便(多くは下痢便)、トイレではないところで為された排便。
(朝起きたら、リビングが大変なことになっていた等)
激しい状況になっているので「祭り」なのです。
女性の場合は、あまりないのですが、男性はその肉体的構造によるのか、場所を構わずの排尿をされることが多く、これを「大洪水」と呼んだりします。
う○こ祭りや大洪水に遭遇したら、心は萎えます。
それが毎日のように、というかたもおられます。
そうでなくても、虐待が起きるきっかけは、排便の介助や、粗相だったりすることが多い。
特に介護するひとが男性の場合。
母は幸いなことに、恐怖の弄便は、2,3度、それもカーテンにう○こをなすりつけるくらいで、卒業しました。
トイレへ誘導した時に大体は排便してくれますし、リハビリパンツの中になされる場合も、振れば落ちるという状態で、先日のような激しい下痢便や、寝ている時にお祭り状態になり、朝、ベッドの中で背中までべっとり、布団やシーツが・・・というようなう○こ祭りは滅多にありません。
これが、毎週一、二度、あるというかたもおられるのですから、私は楽させていただいてますね。
この点では、本当に母に感謝しています。
こういう場合、信仰者は「お母様は、長い間法華経を信仰してこられたから、」とか「御題目のお陰ですね。」とか、言われたり、家族もそのように周囲へ言ったりしますが、私はそのように言わないようにしています。
何故なら、母のう○こ祭りの開催が稀なのが、信仰して来たからなのか、御題目のお陰なのか、立証のしようがない以上、
「法華経を信仰していれば、そして御題目を唱えていれば、認知症の症状が激しくなくてすむ。」
という短絡的な因果関係の方向へ話が行ってしまうことを警戒するからです。
亡くなった師匠が「あのかたは、法華経に書いてある通りに、生きておられる。」と、称賛されていたかたが、最後は大変苦しい病となり、「法華経を信仰して来たのに、何故、こんなに苦しい病になったのだ。ほんとうに、どうして私はこのようになったのだろう?」と、ばかり悩まれ、師匠がどんなに言葉を尽くして、話をされても、まったく耳をかさず、「何故だろう?何故だろう?」と、苦しみつつなくなられた、と、師匠から伺いました。
熱心に信仰し、唱題行もしてきたのに、、とがっかりしないためにも、また、御題目さえ唱えていれば大丈夫と心の準備をしないより
「病になる時はなる。」という現実をしっかり伝えたほうが、心の準備を含めて、適切な対応を考えておくことができるのではなかと思います。
半生をひたすら菩薩道を歩かれたかたでも、苦しい病に成る時にはなる。
半生をひたすら教化に生きられたかたでも、認知症になる。
もしかしたら、そこから「わざわざ認知症になってまで、導く。」という説き方となったのかもしれませんが、認知症の介護の現場は、要介護者に菩薩の姿を観じる努力よりも、う○こ祭りに出会ったら、すかさず無感覚になる術を会得するほうが、心の疲弊を防いでくれるような気がします。
介護ブログを読んでいますと、この「無感覚の術」を早めに会得されたかたほど、早く楽になって行かれる様子がわかります。
私も、最近ようやくこの術をマスターしたのではないかと、思っていますが、つぎのう○こ祭りが来てみないことには、わかりません。