記事No | : 2302 |
タイトル | : Re^2: 法華を知るものは世法を得べきか |
投稿日 | : 2013/11/26(Tue) 14:00:06 |
投稿者 | : HIROMI |
> 仏教でいうところの「捨てて」は、破棄の意味ではなく「いったん脇に置いて」だと、前にも書きましたね。
> なので、この道元師の御言葉は「世法をいったん脇に置いて」まず仏法を受持しなさい。です。
> みんな、捨ててを「破棄」だと思いこんでいるから、仏法は俗世とは無関係なところにあるものだ。と、思いこむことになるんです。
敗戦後の日本は宗教アレルギーが蔓延し、さらにオウム事件でアレルギーはアナフィラキシーへとこじれました。
かつて私は、某学会やナントカ教など、カルトイコール宗教だと思い込むトンデモ男に何人も出会ってうんざりしてきました。そういう輩とはソッコーで別れましたが、シャキッと論破する力量のない自分にも情けなくなりました。奴らは今でも私のことを変な宗教にかぶれた困ったちゃんだと思っているのだろう。
> 日蓮聖人の「法華を知るものは世法を得べきか」は、道元師の「世法を捨てて仏法を受持せん」と対のようなものです。
>
> いったん世法を脇に置いて、仏法(法華)を知ったら、俗世に新たな世法が見えてくる。俗世に新たな精神を及ぼすことができる。
> 真宗が最近盛んにいう「往還」と同じです。
たいへん勉強になります。
そうです、私が感じていた仏教に対する感覚はまさにこれです。
俗世に新たな精神を及ぼすことが「できる」からこそ、仏教の御聖人方の遺した言葉を聞きたくなるし、引き込まれていくのですよ。
それを、「宗教なんか逃避だ、そんなものを信じてないで現実的に生きるべきだ」という小学生みたいな理屈で私を馬鹿にした大馬鹿野郎が何人もいたんですよ。
そうじゃねえだろ!宗教をUFOやお化けなんかと一緒にするな。
すみません、つい興奮して(´Д`;)ヾ
>
> 世法=一念三千としてしまうと、日蓮聖人がそのすぐ前の「天晴れぬれば、地明らかなり」と共に、この言葉にこめたダイナミックな思想がどこかへ行ってしまい、この言葉は人々の心の中を覗かせるだけのものになってしまう。
> 残念なことです。
> 政教分離、宗教は政治とは無関係でなければならない。
> と、いう思いが、日蓮聖人の御言葉を「自分の心の中を覗くためのもの」にしようとする方針を打ち出させるのかもしれないが、日蓮聖人の時代には「政教分離」という言葉もなく、その思想もなかったのだ。
宗教を曲解してしまう愚か者が増える危険から遠ざけるために、政教分離という手を使わざるを得なかったのですね。
真摯な宗教と、宗教的な偽物との境界線があやふやなのは、人の心が怠惰に向かっているからでしょう。しかし、豊かさは怠惰を産みますからね。どうしようもない。
鎌倉仏教が生まれた我が国は、当時辛く厳しい状況でした。
怠惰にかまけている余裕などありませんでした。
「自分の心を覗くためのもの」だけなら、宗教ではなくて他の方法でいいはずです。詩とか文学とか。単なる言葉いじりとか(笑)
ちなみに、宗教がないから例えば人を殺したあとも平気で恋の詩なんかブログに書けるんじゃないかと思います。
10代の子らが、時々そういうゾッとする生き物に変貌しているのを見ると、何とも言えない気分になります。