水底の虜囚 |
最終章・炎の傷痕・4 |
火曜の夜、オスカーは言われたとおり、夜の10時にリュミエールの館にやって来た。供も連れず、徒歩で人目をはばかるように夜道を歩いて来た。リュミエールからの正式な招待であるし、肖像画を描いているのを見学するだけなのだから、気にすることもないのだが、何故だかそうしなければならないと思ったのだ。幸い今夜は厚い雲が月を覆い、姿を隠すのに丁度いい。 (ひと雨きそうだな……) オスカーを空を見上げながらそう思った。湿った空気が鼻孔をくすぐり、体中に纏わり付くような不快感が広がる。体を覆っていたマントを後ろへと勢いよく投げる。 なんだか、すっきりしない。 首の後ろがチクチクする。 オスカーの鍛え抜かれた軍人特有のカンが警告を発する。 そのまま彼は立ち止まった。全身から鳥肌が立つ。今まで聖地や宇宙を守るため反乱の鎮圧や、惑星間の戦争に何度も足を運んだ。報告こそはしなかったが、生命にかかわるような危険に幾度でも遭遇した。そういう時、カンだけが頼りになる。 今夜は、彼にとって今までの最大級の危険を告げている。行ったら取り返しのつかないことになると、確信する。だが……。 だが、そこにはジュリアスがいる。 オスカーが何よりも崇拝し、愛しているジュリアスがいる。 そのジュリアスの身になにか悪いことでもおきているのではないかと不安でたまらなくなる。 (落ち着け、落ち着け! 俺はなんて弱虫なんだ) 恐怖を取り去るように頭を二三回強く振ると、オスカーは決然とした足取りでリュミエールの館に続く道を歩いて行った。 しばらく歩いた後、水の館が見えてきた。 夜の闇にほのかに浮かび上がる蜃気楼のように、静かに揺らめいて見える。 その風景がこの世のものとは思えず、オスカーはギョッとなった。 (こんなに薄気味悪い館だったのか、ここは……) オスカーは館に入り、執事に来意を告げながら、薄暗い邸内を観察する。玄関ホールにいくつかかけられている絵は、すべて海をモチーフにしたもので、青を基調とした部屋の内装とよく合い、不思議なハーモニィを発していた。特に白鯨の絵はそのまま壁の海の果てまで泳いで行きそうな躍動感がある。 いかにもリュミエールらしいと、オスカーは独りごちた。 ここはあいつにとって居心地のいい場所なんだろう、いわばテリトリーだ。今夜のイライラはきっとこのせいなのだろう、海は嫌いではないが草原星で生まれ育ったオスカーにとって馴染み憎い場所である。 その海底を思わせる長い廊下を歩きながら、だんだんと息が詰まってくるように感じる。全身が今なら引き返せると叫び声を上げる。だがその先にはジュリアスがいるのだ。彼のためなら命を捨てることさえも惜しくはない。そう思うとすーっと全身が軽くなった。 通された部屋はどうやら書斎らしい。狭い室内に大きな机とそれを取り囲むように本棚が置かれている。その机の上のランプの灯りは小さくて、夜はめったにこの部屋は使わないらしい。その証拠にやりかけ書類が散らばっている。 (きちんとしているようで、意外と不精な奴なんだな) オスカーは何の気無しに手に取ろうとする。 雷光が室内をいきなり明るく照らし出した。 オスカーの目の中にそこに描かれているものが飛び込んだ。 それは絵、乾いたばかりの水彩画。 その中にはひとりの人物が描かれていた。 白く透き通った肌に流れる黄金色の髪。 オスカーがよく知っている彼の、見たことのない姿。 そしてオスカーの知らない恍惚の表情。 リュミエールが描いている絵とはこれだったのか。 「ジュリアス様……」 オスカーは振り絞るようにそう言うと、手にした絵を握り締めた。 |