水底の虜囚

 

第一章・水底の虜囚・3

 




 暫くして戻ってきたリュミエールは小脇に絵の道具一式を抱えいた。これ見よがしにジュリアスからよく見える位置にイーゼルを置くと、そこに真新しいキャンバスを立て掛ける。
「ふふっ…あなたにとって屈辱的なその姿を、記念として絵に描かせていただきます」 ジュリアスは驚愕する。
「………そなたは、何を考えているのだ。この神聖なる聖地を汚すような行為が許されると思っているのか」 
 狼狽を隠せないジュリアスの口調に、リュミエールは悦に入る。
「ここでは、わたくしがが法なのですよ。それにわたくしに肖像画をご依頼でしたね、さっそく取り掛からせていただいているだけのことです」
 わざとゆっくりと一言一言はっきりと聞こえるように返事をする。
「……き、きさまっは!」
「そのように全身を朱に染めているあなたの姿は、とてもきれいですよ」
 リュミエールは優美なしぐさで木炭を手に取ると、真っ白なキャンバスの上に無数の線を軽やかに引いていった。部屋には木炭がすべる音以外はなく、沈黙が支配しだしていった。
 リュミエールは明確に、力強くジュリアスのすべてをを写し取って行く。
 半刻ほど経ったのち、リュミエールは絵の出来栄えに満足し、木炭をテーブルにそっと置いた。もう一度時間をかけてチェックを終えると、ジュリアスの見えるようにイーゼルの向を変えた。その絵はまだ下書きの段階であったが、リュミエールの力量が並々ならぬものであることが十二分に伺える。ジュリアスの口唇を噛み締めながらも、射るように睨みつける碧い瞳の姿は、殉教者のように高潔で今にも動き出しそうだ。
 ジュリアスは描かれた自分自身が悍ましく思え、絵から顔を逸らした。
 それからどのくらいの時が過ぎただろうか、聞こえるのはジュリアスから時折漏れる苦しげな息遣いのみ。リュミエールは何も語らず、ただ静かに座っていた。

 既に夜は深まっていた。
 中空の月は厚い雲で覆われ、いつの間にか雨が降り始めていた。
 雨はしだいに強まり、開け放している窓から部屋に降り込んでくる。
 リュミエールは立ち上がると、窓を閉めて厚いカーテンを引いた。
 そしてジュリアスの存在をふと思い出して驚いたふりをすると、申し訳なさそうな顔で手足を縛っていた弦をナイフで切り、体を自由にした。
 自由になったジュリアスは、リュミエールの一瞬の隙をつくと、ナイフを奪い取り、キャンバスに突進した。
「破りたければ、破りなさい。……でも無駄ですよ。あなたのその肌の色、ほくろの位置まで全部わたくしの頭の中に記憶されています。描き直すことなど、たやすいことです」
 ナイフを振り上げた背中に、鞭のようにリュミエールの声が追いかける。
「…くっ、リュミエール!」
 ジュリアスはカッとなって振り向き、リュミエールに切りかかろうとした。
「そのナイフでわたくしの目を潰すのですか? それともわたくしの腕を傷つけるのですか? …いいですよ、おやりなさい…ですが出来るのですか? 守護聖の長であるあなたに、仲間の守護聖を傷つけることが……」
 ジュリアスはその場に凍りついた。
 腕は力なく降ろされ、ナイフが手からこぼれ落ちる。
 リュミエールは、足元に落ちたナイフを拾うと、そっと静かにテーブルの上に置いた。ジュリアスは言葉も無く、それを見つめていた。
「いつまでそうしていらっしゃるのですか? お帰りはこちらです」
 扉を開けて、ジュリアスを促した。
 震えの止まらない手で身支度を整え終えたジュリアスは、顔を上げてリュミエールを見つめた。
「……そなたの考えていることが、わからぬ」
 強ばった声でジュリアスはそう呟いた。
「だが、わかりたいとは思わぬ!」
 そう吐き捨てると振り向きもせずに出て行った。
 残されたリュミエールはカーテンを開け、窓からジュリアスを乗せた馬車が小さくなって消えていくのを見送った。
 つい先程まで強く降っていた雨も止み、窓を再び大きく開け放った。地面から湿った土の匂いが漂ってくる。その匂いをリュミエールは思い切り吸い込んだ。

「………ですがあなたにはいずれ、わたくしの気持ちをわかっていただきます」
 リュミエールはそう小さく馬車の消えた方向に呟いた。



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