水底の虜囚

 

第一章・水底の虜囚・4

 




 ジュリアスは宮殿の廊下を足早に歩いていた。
 向かっているのは、リュミエールの執務室である。
 ジュリアスにとって今一番会いたくない相手。
 昨夜はあまりにもの屈辱に口唇を噛み締めたまま、まんじりと朝を迎えた。
 今朝の守護聖の集まりにリュミエールが現れなかった時、思わずほっとしてしまった自分が腹立たしい。
 弱気になっている。
 守護聖の長としてはすぐにでも使いを出すべきだったが、そうしなかったのは、水の守護聖のとりすました顔を見たくなかったのだ。
 今日だけは…。
 だがそうも言っていられない。いずれ会うことは避けられないとは言え、まさか今日リュミエールに頼み事をするはめになるとは、思いだにしなかった。
 考えれば考えるほど腹立たしくなり、ジュリアスは美しい顔を顰めた。
 あんなものをいったいどこで落としただろう。今朝オスカーに指摘されるまで、右耳のピアスが紛失してることに全く気がつかなかった。使いをやり、館の中を隅々まで探させたが見つからない。
 昨夜リュミエールはジュリアスの右耳を噛んだ。
 その時に恐らく外れたのだろう。
 リュミエールの館の中、…あの部屋に落ちているに違いない。
 あの男に頭を下げるのは気が進まないが、人の出入りのある執務室で昨夜のような振る舞いをするほど彼は愚かではない筈だ。

 ジュリアスはリュミエールの執務室の扉を強くノックした。
 返答が無い。
 もう一度ノックしたが、やはり返答はない。
 扉の前でしばらくためらったが、意を決して室内に入る。
 執務室、奥の私室、テラスと探すがどこにもリュミエールの姿は見あたらない。
 ジュリアスは執務室から出て、集いの間、王立研究所、他の守護聖たちの執務室と、宮殿の外、聖地中を探し回ったが、見つからない。
 ジュリアスは途方にくれた。
 行っていないのはクラヴィスの執務室のみ……。きっとそこで待っているに違いないと確信した。
 そしてジュリアスは宮殿に戻り、クラヴィスの執務室に向かった。
 大きく深呼吸し、重い扉を開けた。

「クラヴィス様なら、お留守ですが…」
 部屋の中から、涼しげな声が聞こえてくる。壊れた竪琴を抱えたリュミエールが無人のはずの部屋の中央に立っていた。
 ジュリアスは怯む心をグッと気を引き締めると、リュミエールに対峙した。
「ここで、何をしているのだ」
 昨夜のことは昨夜のこと。
 女王陛下のいる宮殿内は、ジュリアスの領域と言える。守護聖の長として威厳を込めてそう詰問した。
「もちろん、お留守番です」
 リュミエールはすました顔で答える。
「嘘をつくな!」
 ジュリアスは即座に一喝する。
「そなたはここで私を待っていたはずだ。持っているのだろう、あれを…」
「あれって……何、…ああ…」
 リュミエールは思わせ振りに軽く微笑すると、口を開き中をジュリアスに見せた。
「…………!」
 リュミエール舌の上にジュリアスのピアスが乗っている。
 失われていた、右耳のピアス。
 ジュリアスの顔色がみるみると蒼白になった。
 微笑みながらリュミエールは静かに口唇を閉じた。
 昨夜の悪夢は、まだ終わっていない。
「……そなたの望みは、何なのだ」
「望みですか…、そのように突然言われても困惑します。ふふっ…そうですね、お礼に何をいただけるのか、知りたいと思います。お答えによっては……」
 リュミエールは一呼吸おいた。

「このまま、飲み込んでしまいましょうか」
 ジュリアスの反応を確かめるようにリュミエールは言った。
「頼む、リュミエール。そのピアスは私にとって、命にも代え難い大切なものなのだ」
 常に尊大な光の守護聖のうろたえる様を、リュミエールは密かに楽しんだ。
「この竪琴だって、わたくしにとって大切なものだったのです」
 リュミエールの悲しみに沈んだ声に、ジュリアスは言葉を詰まらせた。いつの間にかまるで体中を幾重にも鎖につながれて、身動きを封じられたような息苦しさを感じだす。
 一本一本と羽根をもがれて、飛べなくなった蝶のように…。
 ジュリアスはリュミエールを見つめた。空の頂きと、湖面の静けさを感じさせる瞳がぶつかる。決して交じり合うことのない碧と青。
 自分はリュミエールについて、何ひとつ知らない。
 以前、人に言われた言葉が脳裏に甦る。
『お前は自分の見たいことしか見ないし、自分の考えしか信じようとしない。いつか足元をすくわれるぞ。気をつけるんだな』
 その時は烈火のごとく怒り、即座に否定したのだが、今となってはその忠告を心に留めておけばよかったと、後悔するだけだ。
 ジュリアスは深くため息を就き、瞳を閉じた。ローブを床に落とし、次いで装身具、そうして身に着けている全てを脱ぎ捨てて、リュミエールの前に立った。
「それならば、今から描きかけの絵を完成させればよい。ここならば邪魔は入らぬ」
 ジュリアスの白い裸身は、深い闇の中でさえ眩い光を放っているかのように、闇の中に浮かび上がった。
「あなたが自主的に申し出てくださるなんて、とても光栄のいたりです。…ですが残念ですが、あいにくと今日は絵の道具を持っていないのです」
 ジュリアスは表情を浮かべると、床に散らばった服を拾おうと身を屈めた。
「お待ち下さい」
 鋭い言葉に、ビクッとして伸びた手が止まる。
 リュミエールは改めてジュリアスを見つめる。
 光の守護聖として威厳のあるジュリアスの姿は神々しくて美しい。
 しかしリュミエールの目には、それ以上に何も纏っていない姿の方が美しく映る。
 昨夜のあの感激は幻ではなかったのだ。
 ジュリアスの真実の美しさを最初に知ったのはクラヴィスでもなく、オスカーでもなく、この自分……自分だけだと思うと、リュミエール内心得意になった。
 このまま永久にこの光の美身を自分のものにしたい。
 リュミエールは竪琴を床に置くと、手をジュリアスの両肩にそっと置いた。



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