ああ、ここはなんて心地よいのだ。
安らぎを司どってはいたのに、自らは心から安らげなかったわたしは、ここに来てようやく心の平安を手に入れたような気がする。
今までのことは全て夢の彼方。
ここにいることがわたしにとっての現実。
わたしを縛っていた運命、責任、呪縛の全てから解放されて、今ほどゆったりとした気持ちを味わったことがない。このまま寄り添う少女を抱き締めたまま、身を任せ、無に還ろう。それが、わたしの望みだったのだ。
私の胸を熱いものが濡らす。少女が泣いているようだ。
どうしてだろう? わたしは彼女を悲しませることしかできないのか…。
少女の顔を引き上げ、頬から流れ落ちる涙を指で優しく拭った。
「悲しむことはない。わたしががこうなるのを望んだのだ。未来永劫わたしたちは一緒だ」
少女の耳にそう囁きかけた。
しかし彼女は泣きじゃくり「ごめんなさい。ごめんなさい」と繰り返すだけ。
わたしは彼女の顔を再び胸に引き寄せて抱き締めた。わたしたちはいずれ無に還る。それまでの永い時を互いの存在のみを感じて過ごすのだ。わたしは彼女の髪に口づけし、瞳を閉じた。
既に時間も体の感覚もなくなっていた。寄り添う二つの魂、わたしと少女だけが全てだった。
意識がだんだんと遠のいてゆく。
……このまま眠りについてしまおう。
「クラヴィス様、あなたはここにいてはいけない。聖地にお戻り下さい」
突然の少女の言葉に、わたしは瞳を開いた。
「何故? わたしはこのまま眠りたいのだ」
「……いいえ、クラヴィス様はそんなことは望んでいません。あなたのいるべき場所は聖地です。そこにはあなたの本当に望むものがあります。お戻り下さい」
「いやだ。聖地はわたしに苦痛しか与えない。今はお前がそばにいる。わたしにはお前しかいないのだ。望むものなどありはしない」
「嘘です」
少女は悲しく微笑んだ。
「あなたのあの方への想いは、あなたの一部になっているのです。呼吸をし、眠ることと同じように、あなたからその想いを取り消すことは、できません。…私は、私は、我慢すればよかった。いいえ、そのつもりだったんです。でも、あの日あなた方を見た瞬間から、自らの心の闇に捕らわれてしまったんです」
「わたしは真にお前を愛している」
「…ええ、今ならわかります。クラヴィス様が私のことを愛してくださっていることを。だからこそ、戻ってほしいのです。この罪は、引き起こした私一人が取ればいい。あなたはあなたのいるべき場所に………」
そう言うと、わたしから離れた少女の体は、闇の深遠へと下降していった。
彼女の顔からはキャビンで見た邪悪な影は消え去り、彼女がなるべきであった女王の満ち足りた、慈愛の表情を浮かべていた。
結局わたしは、一人の人間の可能性を踏み潰し、幸せにさえしてやれなかった。
このままおめおめと聖地に戻れない。彼女を永劫の苦しみに委ねたままで…。
『………戻るのだ』
直接、私の頭に重々しく声が響いた。
『お前は聖地へ戻り、この後始末をしなければならない。この仕事はお前しかできない』
「しかし、わたしは…」
声に向かって言い返した。
『彼女のことは、心配いらない。いずれまた時が来れば、新しい生を得ることもできよう』
深遠から巨大な掌が現れ、上昇してくる。
その上に先程落ちていった少女の体を載せていた。
掌は少女の体を上空に発生した七色の光の渦に、投げ入れた。
………あれは、生命の渦。女王陛下でも、生命に関してだけは、その力を司ることはできない。
こんなことができるのは………。
「あ、あなたは……」
『我の声を聞き忘れたか、クラヴィス』
無の中から、全身を白銀色に包まれた巨大な体が出現した。万物の父であり、長である造物主、全ての運命を定めたかた。造物主は銀色に輝く瞳を私に向けた。
『お前の役目は、まだ終わっていない。帰るのだ』
「わたしは、戻りたくなどありません。このまま運命の環に永遠に囚われるの身でいるくらいなら、このまま朽ち果てとうございます」
『囚われの身とはな』
くっくっと造物主は笑った。
『ひとつだけ教えておこう。お前の役目は終わっていないと我は言った。いずれ時が来れば、役目が終わるときが来る。その時は今ではないということだ』
「それならば、いつ…」
『その時がくれば、わかる。…さあ、あの光に向かっていくのだ』
造物主は息を吹きかけて、わたしの体を上空へと押しやった。わたしの体はどんどんと光の中へと吸い込まれていく。光の中心から手が伸ばされ、わたしはその手を強く握り締めた。
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