フロントライン(2003夏・小笠原)その12(携帯版)
小笠原は、英語名だと「BUNIN」という呼び方で、でもコレは、もともとは日本語らしい。
その昔の日本でも、八丈島の遥か沖合いに、小笠原諸島が存在してる事は知っていたそうだ。
その頃はもちろん、小笠原という名前は無い。
しかし、当時の日本には全く利用価値が無い島々であり、『無人島』とだけ呼ばれてホッタラカシになっていたとの事。
その「無人」を固有名詞と勘違いした欧米人が、当時の「無人」の読みの「ブニン」を、そのまま採用して「BUNIN」と表記しただけであるとの説なのだ。
やがて小笠原諸島が欧米の捕鯨船の中継基地となって、ハワイなどからの移民までが定住しちゃったのを知り、日本政府(江戸幕府)は大慌て。
「ウチの領土を取られちゃイケン」
ってんで、
「ソコは、ウチの家臣の小笠原貞頼ってのが発見し、小笠原と名づけた島だけんね。だからウチの領土!!」
などと主張したそうな。
しかし、小笠原貞頼という人物の実在自体が怪しくて、どうやら後から作られた話らしい。
結果的には日本の領土だと認められ、日本が慌てて送り込んだ開拓民と、先に定住しちゃった欧米系の住民とで、そこそこ仲良く生活を共にしたとの事である。
さて、ここまでは、各方面からの聞きかじりやら斜め読みやらで得たノーガキである。
ここから先は、何の根拠も裏付けも無く、そして参考文献すら無い、全くの個人的な推測なのだ。
従って、コレを引用してウソツキ扱いされても責任は持てないので注意して頂きたい。
当時の日米政府関係者による、小笠原領有権の協議。
「アンタらさあ、昔っからBUNINを領有してるって証拠があんの?」
「恐れ多くも小笠原は、我らが家臣の小笠原貞頼が発見し・・・・」
「ソレってマジ怪しい!!小笠原諸島なんて名前を言い出したのって最近じゃん。それってアトヅケっぽくない?」
「そ・そんな事は断じてありません。それは遺憾な発言ですぞぉ」
「そぉ?それじゃ、コレを見てみてよ」
「な・なんですかな?なにやら絵図のようでござるが」
「ソレは、我々が測量して作成したBUNINの地図なんだけど」
「そ・それが何か?」
「それぞれの島の、アンタらのクニでの名前は?」
「うっ!!そ・そりは・・・・・」
「領有してるって言うのに、名前が無いなんて有り得ない!!」
「も・もちろんでござる。えっと、ソレは、うんと、どっしよっかなぁ・・・」
「どうしたの?早くぅ!」
「うげげげ、ゲホゲホッ、え・ええいっ、ソレは父島、そして兄島、そっちは母島、そんでもって姪島・・・・」
そうなのだ。
小笠原諸島の島名の安直さは、まさにこんな感じで、追い詰められた日本側担当者のボキャブラリーの乏しさに起因してしまったに違いないのだ。
最も、次々とアドリブで名付けるには、何か共通性を持たせるのが無難な作戦で、ヘンに複雑な名前にしちゃうと
「さっきの島名を、もう一度」
なんて聞かれたらシドロモドロになってしまうキケンがある。
不自然な関連性があったって、どうせアメリカ人には判らないのだ。
一歩間違ったら、子島・丑島・寅島・卯島・・・・なんてネーミングになってた可能性もあったのだけれど、そうじゃなかった事に感謝しようではないか。
以上は、根拠のない自説なんで、くれぐれもご注意を。
夜明道路を走破してしまえば、走るべき道は殆ど終りである。
ノンビリとメシを食い、宮之浜でひと泳ぎし、そして三日月山の展望台を目指す事にする。
三日月山は二見湾の北側にある標高204mの山で、途中の展望台まではクルマで行く事が出来る。
半島のように海に突き出している地形なので、なかなかの眺望が楽しめるが、それだけではない。
ココは夕日を眺めるポイントとして有名なのだそうで、確かに水平線の彼方まで、あと一時間ほどで水没するであろう位置に構えている太陽を遮る物体なんかは何一つ無い。
しかも今日は、サンセット見物するには邪悪な存在である雲も、全く姿が見えないのだ。
すでに何組かの観光客が陣取って、思い思いにノンビリと過ごしているのだけれど、我が家はそれに加わる事が出来ないのが残念だ。
日没よりも先に、レンタカーの返却時間が迫っているのだから仕方が無い。
海と太陽を交互に眺め、あとはイマジネーションを働かせてカンドー的な日没の光景を想像しながら駐車場に戻ると、次々とレンタバイクやらクルマ、そしてゴクローな事にチャリまでもが登ってくる。
そんな駐車場の脇には旧日本軍の通信基地の残骸があり、半地下で、しかも熱帯風の木々に埋もれている。
偽装工作の為に植えられた木々なのだろうけれど、余りにもリッパすぎ、そして複雑に絡みつきすぎている。
この建物にとって、完成当初は補助的な役割だった木々が、やがて建物のヌシとなり、長い年月のうちに支配権を盤石なモノにしてしまったのだ。
同じ小笠原圏内の硫黄島のような激戦が展開された訳ではなく、沖縄のような大勢の民間人が犠牲となった悲劇的な戦闘が行われた訳でもないだけに、父島の日本軍の痕跡には生々しい凄惨さが感じられない。
むしろ、戦わずして捕らえられてしまった捕虜のような虚脱感が漂って見える。
夕日見物の人々で賑わうコギレイに整備された展望台の建物と、歴史の流れの中で生き埋めになってしまった建物。
どちらも、決して長くは無い小笠原の文化を飾る象徴なのだ。
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