富裕は収入から来るのでも貯蓄から来るのでもない。秩序から来るのだ。
がつがつした金持は、ただの貧乏人よりいっそうみじめである。
                        ―― モンテーニュ
AZの金銭征服
1.金―万人につながるもの
 1959年10月15日、これはこの本がスタートした日付である。伊勢湾台風のほとぼりがまださめず、街頭には募金の声があふれ次の台風が南方洋上で動き始めていた「あの頃」である。
 私の書物は書いている先から「過去」のものとなる。私の書物を読んでいるあなたは私の「亡骸」の声を聞いている。私自身ですらも、この本が印刷されたころは、どこか遠い地点に立ってこの「遺物」を眺めていることであろう。
 大切なのは私ではない。私の本でもない。あなたの生活が、あなたが生きている「今」が大切なのである。
 私の書物が一刻も早くあなたの手に入るということは、大して重要ではない。今から十年後にある人の書斎の片すみで、ボロボロになっているこの本をあなたはヒョイと見つけるかもしれない。それが大切なのである。
 私が書物を書くとき、この「祈り」が一字一字にこめられていなければならない、ということが最近わかってきたようである。どんな「祈り」か?
 「この本が、最も適当な時に、最も適当な人の手に入りますように」これがその祈りである。そしてこの祈りは成就するであろう。私が本気で書物を書く以上は。

 私は“AZシリーズ”という一連の著作を世間に出すことを決意して、1958年の初めからいろいろのものを書き出した。この本はその第五作である。したがって、今この本を手にしている人のなかには、私の旧作を何冊か読まれた人もたくさんいるだろう。しかしまた、AZという奇異な名前にこんど初めてぶつかった人も沢山いるであろう。
 私は第三作『AZの教祖』を書き終えたころに、AZ同胞会という一つの組織を作ることを思いついた。組織といっても、今のところそれはいかなる形態も持っていない。会長もいなければ役員もいない。会費も取らなければ、総会も開かない。それは、いわば「心の世界」で誕生したばかりのもので、目に見えぬ所でひそかに根を張り、物質界に姿をあらわすのに何年かかるか、だれにも判らない。『AZの教祖』の巻末の用紙に、私はただ、この「会」には何の義務もないと記しただけのことである。最小限の制約は、この同胞会の会員は“AZシリーズ”に興味をもち、各巻の自由価出版に応援するということぐらいであった。自由価というのは、ゼロも立派な「自由価」の一種であるから、金銭的にはそれこそビタ一文も出さずに、一生涯この“AZシリーズ”の郵送を受けつづけても構わないのである。
 私が自由価出版を考えついたのは、金で人を縛り、人に縛られる現在の経済機構をまっぷたつにしたかったからである。まっ二つというのがオコがましければ、スルリとすり抜けると言いかえてもよい。
 要するに金がなければ何もできないという世間の「公理」を初めから無視してかかったのだ。金がなくても生きられる、というのはもちろん逆説であるが、金が先か、人間が先かという問題に対して、はっきり人間が先だと言い切ったところに、私の「自由価運動」の出発がある。
 「運動」と言っても、それは普通の意味の「運動」ではない。つまり、私には「衆をたのんで」という気持ちもないし。大衆の「示威行進」をオッパジメルつもりもない。
 私は、ただひそかに始めたのである。
 そして共鳴者がひとりでに出てきた。それは私の弁舌が功を奏したわけではない。どの「人間」のなかにもあるなにものかが動いて、私の動きと一致しただけのことである。
 しかし、現実的に言って、私が『AZの楽天主義』を出版して以来、自由価の賛同者が百円、二百円、三百円、あるいは五百円と、適宜、適当な時期に、適当な代金を払い込んでくれたのはたいへん有り難いことだった。
 私は、おおむね闇夜に橋を渡るような経済生活をやっているので、タバコ一つ買えなかったり切手代にも事欠いているときなどに、思いがけず送られてくる「応援金」にどれだけ助けられたか、それは言うまでもない。
 だから、私は決していい気になっているのではない。人々の好意のうえにアグラをかいているのではない。私の命など風前のともしびである。万一、「神銀行」があらゆる窓口に支払停止命令をかけたら、私は立ちどころにヒボシになってしまうだろう。
 しかし、私はやっぱり商売人ではない。顧客にシッポをふる犬ではない。書きたいことを書き、しゃべりたいことをしゃべっているだけの人間である。その私に、あるいとき「自由価」というアイディアが生まれた。そして今のところ、このアイディアは功を奏しているようである。

 “AZシリーズ”の第五作であるこの本に、私は『AZの金銭征服』という題をつけた。今までになく、即物的な題である。
 前作『AZのスブド』を書いているころ、私は次の作品は『AZのセックス』になるかなと思っていた。しかし、私がペンを取ったとたん、別のテーマが目の前に立ちはだかっている。それはオカネの問題である。
 セックスに悩んでいる人も世に多かろう。しかし、性慾よりも食慾のほうが本能としては根づよい。五日間メシを食わなかった人が裸の美女と一しょに密室に放りこまれたとしたら、かれはやはりドアの向こうから匂ってくるビフテキのほうに気をやるであろう。このまえの大戦の最中に私たちがどうであったか、思い出せる人なら、性慾と食慾とどちらが先かという「哲学的問題」をこれ以上むし返す気持にはなれまい。
 食えなくちゃ――こういう気持ちは、すぐ金銭慾と結びつく。まあ大半の人はそうである。毎月十万円の収入があった人でも突然半分以下に収入がへったとしたらなんとなく「不安」になる。家庭争議も起こるだろうし、ノイローゼになる人もいるだろう。
 オカネは万人の生活と思考につながる。AZが、AからZまでの人事百般を扱かうとなれば、この問題を素通りすることはできない。
 前作『AZのスブド』では、ある章に私はちょっとオカネの問題にふれた。しかし、その触れかたは暗号的であった。ある種の人でなければピンと来ないような書きかたであった。オカネが万人の問題であるならば、私はもっと万人的な説きかたをしなければいけない。そう思ったのがこの本の始まりである。
 次の章に移っていただくまえに、ひと言注意したいことがある。それは、この本の目的は単なる金銭論や金銭に関する道徳的なお説教にはない、ということである。そうかと言って、益田金六氏のように「金の貯め方」や「利殖の法」を教えるのではない。
 要するに、この本はテクニックの伝授をねらったのではない。あなたと金銭との関係が、この本を読む前と後で、ガラリと変わるように、つまり、あなたという人間が内的な革命を体験し、金銭が「新らしいあなた」を発見して、今までとまるっきり違った方法で、あなたに接近してくるような「変化」をもたらしたいというのが、私の願いである。
 私は魔術師ではない。あなた自身が変りたいと真剣にねがわなければ、「変化」はオイソレと来るものではない。あなたはこの本という「鏡」におのれを映し出して、よくよく自分の人相を研究する必要がある。ニキビをほじくり出すにも、ねらいが正確でなくてはならない。
 さあ、用意はできたようである。先に進もう。