AZの金銭征服
広沢虎造ばりの「石松代参」をウナって満場の喝采を浴びた得意満面のシーン。・・・名医を志して北大予科に合格した夜の嬉し涙。戦争中の援農生活・・・そして終戦と同時に医者から政治家志望に一転し、法学部に転部するや敗戦日本の再建に乃公出でずんばとイモを齧って意気まくポーズ・・・・・。
 赤化した法学部に国庫援助が断たれ、閉鎖寸前というとき、二千万円の募金に成功し、東大の我妻栄教授から「東大に光クラブの山崎社長あり、北大に清水資金対策委員長あり、いずれも学生版・集金王の双璧なり」と評されて大いに照れた想い出・・・と回想は限りなく私の瞼に浮かんでは消えていた。
 こうして翌々日、私は上野駅に降り立ったのである。


   テレビに初見参

 マンモス都会の北玄関のものすごい雑踏の中に立って、文字通り熊男のように茫然としていた。
 だが、徒らに駅構内の芋を洗う如き人混みや、道路に氾濫するおびただしい自動車の洪水に戸惑ってもいられない。私には微かな希望があった。上京の際、北大の杉野目学長から貰った広川弘禅氏への紹介状である。
 私は自動車の警笛におどかされながら、やっとの思いで駅前通りを横切ると、Jという食堂へはいった。そこで私は奇怪な(!?)光景に接した。食堂内の客が揃いも揃って飯や飲物を口に入れながら空間の一点を見つめているのだ。自然と私も彼らの視線を追う格好となったが、それがテレビだった。丁度プロ野球の実況放送の最中なのだ。
 「これが、テレビというヤツか」
 私は注文したカレー・ライスを食べるのも忘れて画面を注視した。当時、北海道にはまだ一台のテレビもなかったため、生まれてはじめてテレビに見参した次第である。
 「こりゃ、大したシロモンだ」
 食堂の観衆がびっくりしてふり返るほど、思わず大きな声を出してしまった。
 いまになって考えれば、これが後の私の仕事の伏線的役割を果したともいえないことはない。が、このときはただ一介の田舎者が都会文化の最先端をゆく“文明の利器”にたまげ、われを忘れて画面に吸いつけられていただけである。おかげで食堂を出たときは、すっかり日が暮れていた。当てもなく駅前に立ってネオンの点滅を見ていると、ポンと肩を叩かれた。見ると宿屋のポン引きだった。
 「旦那、六百円の格安ですよ。お風呂はきれいだしサービス満点の優良旅館です」
 安くてサービスがいいならと思って、ついていったが、翌朝出発の前に勘定を聞くと、「二千円いただきます」という。これにはテレビに初見参したときより驚いた。二万円が虎の子だから、一泊二千円とられていたら十日間でルンペンにされてしまう。私は慌てて新聞を買うと貸間案内を探した。さいわい権利金も敷金もない部屋をみつけることができた。部屋代は四千円。場所は五反田だった。


   広川弘禅よさようなら

 これで、ともかくも一ヶ月は雨露をしのぐ場所ができると、翌日、真っ直ぐに広川弘禅氏を訪ねた。広川氏は当時北海道開発関係の委員長をしていたが政治的には受け入れられず、一時のような華やかな脚光を浴びてはいなかった。しかし、私は反って不遇な人だからこそ、自分の環境や生活に照し合わせて親身になって相談にのってくれるだろうと思っていた。そして、もしも広川氏が自分を認めてくれて、内書生にでも置いてくれたら、落ち目の広川氏のために、粉骨砕身、ベストを尽くそうという気持ちだった。
 北大学長杉野目氏の紹介状で広川氏はこころよく会ってくれた。
 「君は大学で何を専攻したのかね」
 「専攻など別にありませんが、法学部でした」
 「それなら、弁護士にでもなったら、どうかね」
 会話は長くは続かなかった。弁護士にでもなるつもりがあれば、大学時代にもっと六法全書を勉強して、その段階を経てきただろうが、そんな気持はまったくなかった。弁護士になるため北海道からわざわざ出てきたんじゃないと思う一方、広川氏のために尽くそうという甘い考えが、彼の一言で忽ち吹きとばされたような気がしたのだ。
 広川邸を辞した私は、正直なところすっかり途方に暮れてしまった。広い東京の空の下で、他にこれといって頼る人もなく、手持金は残り少ないときている。しかも、その帰途渋谷駅のホームに立っていると、わきにいたサンダルばきの青年が、するすると前に出て、サンダルを脱ぎ捨てるなりアッという間にホームから飛びおりた。変な奴だと思って前にのり出したとたん、電車が突入した。飛込み自殺だったのだ。私は口もきけないほどのショックを受けた。そしてホームに残っているサンダル一足が妙に生々しく眼に映った。
 「これは俺と同じく田舎から出てきた奴に違いない。仕事に行詰まって死んだんだ。こうなったらおしまいだぞ」
と私は直感的に思った。前途の思わしくない状態をくよくよ考えていたせいもあったが、彼の死に私の末路を感じた。翌日の新聞をみるとやはりそうだった。私は奮起した。
 俺はまだ若くて身体も頑健だ。いよいよ職がなければ小僧になってもいい。ニコヨンになって働いても構いはしない。若い者一匹、餓死することもなかろう、と勇気が湧いてきた。


   軍曹から出たヒント

 それからニ、三日後、私は五反田駅付近で偶然にも、北海道時代の友人にバッタリ会った。
 偶然という不思議な時間の綾は、人の一生を決定的に支配するころがある。それが幸運か不幸かは、その人々によって違うが、私の場合は、この偶然が今日の私に飛躍させたスプリング・ボードになったのだった。