私の提灯持ちをする批評家は一人もおるまい。そのかわり大衆が支持してくれる。大衆はコリー犬のような素晴らしい嗅覚をもっている。面白い、つまらないを嗅ぎわける。ホンモノ、ニセモノを見とおす。
 この本はホンモノである。なぜなら、私はこの本を身体で書いたからだ。君と同じく、明日の電車賃もないような目にたびたび会いながら、今日もこれを書いている。私の名がいかに三菱の三倍以上であったとしても、現実は借金でもあつめて質に入れたいほうだ。もしかりに、私が天下の財閥だったとしたら、金力の絹ぶとんの上に悠々と寝て、「金銭征服」などという面倒くさい問題と取り組まなかったであろう。貧乏人どもよ、ここまで昇ってこいと、ヤグラの上で美人をひざに特級酒でも飲んでいることだろう。それをそうさせないのが神さまの慈悲であるらしい。
 今年の夏、アメリカ人について廻って儲けた三十万円の栄華も、もう遠い昔の夢と化し、商売道具のタイプライターも一六銀行に奉納したような今日このごろではあるが、夕べの乞食は朝の大尽、古い中国の慮(櫨の旁)生という青年が見たというカンタンの夢も、これを遁世の口実とするのではつまらぬ。スッカンピンの身であればあるほど、金銭征服の夢をもやすのが、イキのいい現代人の真骨頂ではないか。
 あすの我が身はわれ知らず、ましてや人の知るよしもない。僥倖にしてこの本が、洛陽の紙価を高からしむる一大ベストセラーになっても、万金を懐中にしたリンサンは、全国愛読者招待大宴会なるものを熱海でもよおして、一夜にして元のモクアミになるやも知れぬ。
 要は、カネをためるのではない。カネを自由にするのである。人間に生まれた果報をアダにして、一生カネの奴隷となってキュウキュウとする我が身・人の身の不甲斐なさに憤りを発したのが、この本執筆の動機である。
 「金銭征服」のコツと呼吸は、理論にあらず、銀行預金にもあらず、ハラとハラの付き合わせ、曰く言いがたしの以心伝心術で著者なるリンサンから百万人の読者に伝わるべきものである。
 わが文章はおどけと宙返りに満ちているが、これは単なるインテリ落語ではない。知る人ぞ知る、つかむものはつかむと言った類の、達人の真理である。
 幕合のアイスクリーム売りの如く、著者がまかり出て、いいかげん茶々を入れた図であるが、世にも稀なるAZイタチの最後っぺと思って、まあ許していただきたい。以上、印刷屋の店先で一瀉千里、ペンを走らせた次第。
AZの金銭征服
7.清水昭の傍証
 清水昭という男がいる。
 太平洋テレビジョンの社長、取って三十三才、私と同年、年間数億円の商売をし、百三十人の社員を従えた雄将である。
 この男が私の生き方の傍証をするという話である。
 大切なことは、私が6章の次にこの章を書いているという事実である。6章を書き上げた十三日の金曜日という佳き日の晩に、書いたものを女房に見せると、女房が「ああ、そうそう、見せたいものがある」という。
 何かときくと、文芸春秋に「あなたによく似た人のことが出ていたわ」という。持ってきたのを見ると、今年(一九五九年)の七月号という古雑誌、その240頁から274頁にわたって、“三年前は無一文”という題で、清水昭なる人物が文章を書いている。
 これを読んでもらいたいのだ。古本屋でバックナンバーを探すのは大変だろうと察するので、私はここに著者および雑誌社に無断で転載する。
 文芸春秋社にとっても、清水社長にとっても、私がこれを再発表することはトビキリの宣伝になるはずだから、文句の言いようはあるまい。まあ、読んで下さい。そして、清水昭が、私のAZ理論を実地に試して成功したという事実を、よく噛みしめて下さい。
もう一度言うが、清水昭はAZのあとから出て来た傍証にしかすぎない。
三年前は無一文
     一押し、二押し、三押し

 曽て徳川三百年の基礎を固め天下を掌握した家康は「鳴くまで待とうホトトギス」或は「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」ということを
処世信念としていたといわれる。このモットーで生きる人は、まず、人生街道のマラソンランナーといったところだろう。
 それに比べると、私などは、さしずめ短距離走者のようにみられるらしい。何しろ三年前故郷から上京したときは、家出青年に毛の生えたような山だしの一貧書生だったのが、いまでは、三十三才というわれながら照れくさい年齢で、太平洋テレビというテレビジョン番組会社としては日本で一番大きい会社の社長になりあがってしまったからだ。
 こんな短期間で、所謂「立身出世」の階段に一応踏み上ると、人の口はなかなかにうるさいものだ。“あいつは怪物だ”とか“彼はやり手だ”“事業の鬼だ”とかいう。特に人に異名を冠せるのが好きなジャーナリズムにかかっては閉口頓首の極みである。曰く“テレビ界の紀伊国屋文左衛門”曰く“現代立志伝のチャンピオン”曰く“現代青年のアイドル―マスコミに奇跡を呼んだ男”等々――
 しかし、私は別に手品師でもなければ怪物でもない。私はただ生きんがために一押し、二押し、三に押しで、努力を重ねてきたつもりだ。その間、幸運な面も多少はあったが、もともと私には金もなければ、背景もなく、家柄もない。すべては自らの手で作り上げねばならなかったのだ。“運、鈍、根”などというオーソドックスな処世法でのんびりやっていくゆとりはとてもなかったのである。
 昭和三十一年五月、故郷北海道余市郡余市町の生家を出た私は、ボストンバッグ一つを両腕で抱えながら、余市駅のプラットホームに佇んでいた。見送人は誰一人としておらず、その上、身を切るような早春の風がホームを鳴らしていた。しかし、私は寒くも心細くもなかった。
 「男子ひとたび志を立てて郷関を出ず。ボイズ・ビー・アンビシャス・・・・・・さあ、これからだ」
 車窓を通して見馴れた北海道の原野が後ろにとび去っていく。私はじっと故郷の姿を眺めていた。だが、いつの間にかこの風景は眼前から消え去り、代りに自分の過去の歳月が映画のオーヴァラップの如く瞼に浮んできた。
 小学校五年生の頃小樽の醤油問屋へ養子にやられ、豪勢な羽根布団に寝小便を垂れて追い帰されたときの惨めな姿・・・・・。中学校の学芸会で
青年テレビ屋文左衛門誕生す
清水 昭
(太平洋テレビジョン社長)