28 八聖道とAZ
 
 お手紙いただいてのち、夜半に静坐をし、心を澄ましてから熟睡した次の朝、この返事をしたためております。
 あなたのお手紙の要点をまとめますと、次の通りになると思います。

(1) AZはあまりにも玉石混交でありすぎる。胸を打たれるほど素晴らしい所と目をそむけたくなるぐらい厭なところと、実に複雑にからみ合っている。もう少し選択ができないものか?
(2) リンサンはあまりに衝動的である。かれは自分のなかから出るものなら、ミソもクソもかまわず出してしまう癖をもっている。これがとにかく自分勝手な自己主張という印象を与え、読者はすなおについて行けない。もし読者のうち誰かが盲目的にリンサンの影響下に入ったら、その人は自分の人生を破滅させはしないか?

 この2点はおたがいに関係をもち、結局ひとつのことと思いますので、以下思いつくままに、このごろ考えておりますことを述べてみたいと存じます。
 仏教に八聖道(八正道)ということばがあります。それは正覚を得るための実践修行の八種の徳目であって、
1 正見
2 正思惟
3 正語
4 正業
5 正命
6 正精進
7 正念
8 正定
 の八つに分かれます。その一つ一つに対する説明は省略しますが、ごらんになれば大体の意味はわかると思います。
 この八つの語には、それぞれ「正」という字が頭についています。その反対は「邪」であって、邪見、邪思惟、邪語云々と並ぶものであります。悟りをひらくのに、この八つの正しい徳目を身につけねばならないということには、私もあなたも反対することはないと思いますが、さてこの一つ一つをよく見ると、どれも容易ならぬことであります。
 私など、そのどれを見ても、自分の身をふり返ると、とても「正」とは言いきれぬものばかりです。人間の身でこの八正道を帯することはほとんど不可能ではないかと、全く絶望的な気分にすらなります。
 親鸞などが「罪悪深重の凡夫」と自分自身を極めつけたのも、同じ絶望感からでありましょう。この八正道は悟りに到る条件ではなくて、逆に、悟りをひらいたあとにおのずから与えられる徳ではないかとさえ考えられます。
 自分のどの部分をとらえてみても、それが「正」ではないということは、全く耐えられぬほど苦しい発見であります。私も数年前にこのことで苦しみのドン底におちいり、自分を罪のかたまりと観じたこともあります。そして手も足も出ぬ無力状態におちいりました。
 そのうち、私は大きなものの計らいで、いつしか「快癒」の道をたどりました。その快癒の過程が断片的に過去の『AZ』にあらわれております。
 ですから「玉石混交」と許されることは、まだまだ過褒だと思っています。玉などはそうザラに世間にころがっていないものであり、私も例外ではありませんから、私が書いたり考えたりすることは全部「石」だと思ってもいいのです。
 実を言うと、玉か石かという比較判断の能力さえ我が身にあるかどうか疑問なのであります。自分では人のためになると思ってやったことが、かえってその人を傷つけるということは、日常茶飯事といってよいくらいです。それでもたいていの人は「しかし何もせぬよりましだ」とか、「まあ何とかいくさ」とか言って、色んなことをやっています。
 こんなことを言うとビックリされると思いますが、私はもう正邪善悪の弁別の努力さえ投げてしまったのです。絶対無力ということが骨身にしみれば、もう小細工はできないのです。こんなことを言うと、
 「そんなら、業さらしみたいな文章をかくのはやめて、鳴かず飛ばずでいればよい」
 とおっしゃるかもしれません。
 全く「業さらし」とはうまいことを言ったものです。私の自宅のそばの駅に、ギターをかき鳴らす片手片目の傷痍軍人がおりますが、そのゾッとするくらいの白目だけの異様な片目と火傷で引きつった顔貌をみていますと、こうやって毎日毎日衆人の目に惨めな醜状をさらしているこの人の業の深さはどんなものかと、寒い気持ちになります。
 民間の娘に生れても皇太子の妃に望まれる人もいるかと思うと、みなからうとまれて露命をつないでいる不具癈疾の人もおります。私も決して例外ではなく、美智子妃のような善業もチョッピリ、片目の乞食のような悪業もチョッピリ、善悪こもごもの人間だと自覚しています。
 善を好み、悪を嫌う−−これは人間自然の情であるかもしれませんが、私は自分の悪ばかりの面について苦悩の淵にハマリ込んだ結果、苦しまぎれに、一つの悟りに達しました。
 それは自分の悪を嫌うまいということです。(それと同時に、もちろん、自分の善を誇ったり喜んだりする気持も薄くなりました) 善悪ともに自分のものでないと手離してしまうと、何だか人生がスカスカした感じになってきました。生きることに前ほど力が入らなくなったのです。たとえて言えば、風にのって空に運ばれてゆく白い小さい一枚の紙のような気持です。
 憂き世は同時に浮き世であります。このことに気がつくと、自分がつかの間の「業さらし」のためにプカプカ世の中に浮いていることがわかってきました。
 そうすると、自分だけではありません。他人もプカプカ浮いている。泣いたり喚いたり、生きるの死ぬのと騒いでいる人々の顔を、シゲシゲとのぞき込んで、
 「きみ、本気なの?芝居でもやっているんじゃない?」
 と尋ねたくなるような、妙な気分になりました。
 それにつれてだんだんと、人を審いたり憎んだりが少なくなってきました(まだ少しは昔の惰性で残っていますが)。どっちにころんだって大したことはない、どうせ浮き世ですもの。そして好き嫌いがなくなってきました。悪い奴は悪い奴、コスカライ奴はコスカライ奴、みんなそれぞれの止むをえざる必然でそうなっているのだから、何も手を加えてどうこうする必要もないという、すごく冷淡・不親切な気持ちになりました。
 悲劇を見て悲劇と思わず、喜劇を見て喜劇と感じられぬ人間ばなれした生きかたになりました。お涙頂戴の映画を見ては大口あけて笑っているし、人がゲラゲラ笑う場面では涙を流したりしているキチガイになってきました。たまに人に親切をして上げても自分がしたような気になりません。人を怒りつけても、これは芝居かなといぶかしんだりしています。スカスカした感じとは、離れた感じです。自分が自分でないような−−おわかりになるかしら。
 だからこのごろ、日本橋あたりの雑踏を歩いていても、「果たしてオレはこの世に生きているかな?」という妙な気持がいたします。何もかも冗談事のようです。浮いています。
 そのくせ、前の章に書いたような“赤ちゃん殺し”の事件をきいたりすると、全身にショックを受けます。鬼のような医者の業(カルマ)と、薄命な赤ちゃんの哀しさが、両方とも私
AZの人間革命