のからだに深くしみて考えられます。

 しめっぽいような話になりました。
 いつものタンカを切るリンサンが、どこかに鳴りをひそめたみたいです。こんな私もいる。いわば寂滅のリンサンが。
 まだ三十代の半ばでこんなに寂滅してしまっていいのだろうか。男ざかりのエネルギーをいったい何に使うのか。自分でも不思議な気持になります。それでときどき蛇口をひらいてみると、何やらドドッと出て行きます。それが世のため人のためになるかどうか、そんなこと分りはしませんが、ときどき蛇口のほうが勝手にひらくこともあります。
 自分の意志・エゴが少しでも残っていると、害毒を流すのかなと思って、次のように祈ったこともあります。
 「神よ、あなたの御意志で、私の小さい意志を溺らせて下さい。私の心とからだの全部を、あなたのお好きなように使いこなして下さい」
 しかしこの祈りすらも「邪魔」になることがわかりました。神と一つになりたい−−この欲望それ自体は正しいように思えますが、実はこれすら妨げになるのです。深い祈りと融合体験に入ると、自分を神と一つにしたいという願望すらも向うにあずけてしまって、絶対無力のなかでウンウン言ってるよりほかはありません。
絶対他力の道は本当に苦しいものです。祈りといっても輝かしい体験ばかりとは限りません。何もかもはぎ取られ暗闇の中に一人ポツンと残され忘れられているような一刻は惨めなものです。祈りも言葉や想念や意志が残っているあいだは、まだしも「張り」がありますが、この「張り」も奪い去られて絶対暗黒のなかに放置されると「言葉なき祈り」という表現もソラゾラしいほど、苦しい自己対決が始まります。
 それは麻酔をかけられた外科手術のような感じです。祈りでもない、冥想でもない、そうです、「手術」です。
 「手術」は毎日毎夜おこなわれています。そしてその途中血がほとばしったりウミが流れ出たりしますが、自分ではどうしようもない。
 玉石の区別をしたらどうかというあなたの注意はもっともですが、麻酔にかかって四肢の自由を奪われた患者は、顔にとまったハエを追い払うことさえできません。私のペンから「玉石混交」で出てくるものを、いざ発表の際に、よく吟味して、人々から賞賛され感心されるものだけ選べばいいというお考えのようですが、私の「本心」は人並に賞められれば喜んでいますが、奥にある「本心」はかならずしもそうでないらしい。
 また、正直言って、私の書くもののうちどの部分が人さまの役に立つかわかりません。そのことの判断力が私にあるとは、とうてい思えません。これは「受け」がいいだろうな、悪いだろうなというのは、案外にわかりますが、神の目からみてどれが「有益」であるかはわかりません。
 それに、物を書くときの私はいつも真剣勝負の気持ちです。とにかく、何がとび出るか予測もつかないのですから、そのつど、生死をかけた一本勝負です。何を書こうと、全部がダイヤモンドの輝きを発するようになるには、まだまだ浄化の時期が必要と想っていますが、今のことろ、出るものは出る、中身はごまかせないという気持ちなのです。
 『AZ』誌が1号以来、徐々に変わってきているのは、あなたもお気づきと思いますが、それはなめらかな一直線ではなく、行きつもどりつの山国の鉄道みたいな進みかたでした。でも、いつ高原に出切って、ヒタ走りを開始するかわかりません。私は著者であると同時に読者です。俳優であるとともに観客です。ヘマなことをやったら石を投げてください。あなたの「石」にあたったら、私の「石」も「玉」になるでしょう。
AZの人間革命
29 ウソもホントウもない
 リンサンは歯切れのいい人である、イキのいいほうであると、人からも思われ、自分でもそう思ってきた。
 しかし、だんだん事情が変わってきた。私自身がこの「仮面」に飽きてきたのである。リンサンというのが仮面だということは、しばらく前から気づき出していて、表現をしないときは仮面をはずして、静かに憩っていた。
 私には「いこい」が必要であるらしく、その現象面の象徴みたいに、同名のタバコをのべつまくなしに吸っている。「いこい」を吸いながらこの原稿を書いているし、何行か書くたびに紙から灰を吹き払っている。
 歯切れのいい人は、黒白のけじめをはっきりつけ、人から独断と言われるのも平気で、アレはアレ、コレはコレと言い切る。みなどれもこれも一面の真理であることを知っていながら、それをやっている。
 真理というものは、つねに一面性を持っている。八面レイロウの真理などというものは、とても言葉であらわせるはずがない。私が書きつらねる真理など、全部ウソだと否定し切っても、なおかつ無傷でそこに残るのが、ほんものの、表現をこえた「あるもの」である。
 でも、このホンモノに到達するには、ウソとホンモノの区別すら無くしてしまわなければならない。全部ウソだと言い切ったり、全部ホントウだと言い切ったりすることによって、「ことばなきホントウ」が辛うじてその尻尾を見せる。
 ホントウを言えば・・・・・という切り出しが実は怪しいのである、ホントウもウソもない世界にまず出たいものだ。
 いちばんいいのは、おそらく、あらゆることに対して判断をさしひかえることだろう。みんなそれをアリノママにみて、アリノママに流してゆく。アルと言ったりナイと言ったりするのは、結局ことばの遊戯であり、生きることとあんまり関係がないのではないか。
 AZ的ということを、人はよく言うし、私も時たま言うが、AZ的などというものが結晶しだしたら、もう「それ」がどこかへ行ったときだ。
 「それ」という無限定なるものと、だれでも、年がら年じゅう、鼻をつき合せて生きている。これは減りもせず増えもせず、生じも滅しもしないものだ。それは、もともと、いじくっても切り刻んでも、何の変わりもないものだから、人は結局、いろんなことをやってみて、やがてその徒労性に気づき、何もしなくなるのではないか。
 「それ」は誰にも、どこにも、いつでもあるものだから、「それ」を悟ろうとしたり、人に悟らせようとしたりすること自体が、ナンセンスであるらしい。
 生れてから死ぬまで、人はいつも「それ」の御厄介になっているが、それを知らない。知らなくても、それはちっとも差支えがないようなのだから、ますます手のつけようがない。
 知っている人は覚者と呼ばれているが、私が自分のことを覚者だなどというと、人はたいへん嫌うから、私は保身上それはオクビにも出さないほうがいいらしい。(でも、やっぱりこんなふうに出してしまうな)
 これは仮面ではないんだよと前置きすること自体が仮面なんだから、それに気がついた私は、だんだんと私らしくない私になって行くようだ。
 私の進んでいる道は結局、パーソナリティ(私らしさ)を無くす道であるらしいから、私が私でなくなってゆくのは、これはもう避けがたいことであるらしい。