無垢純一の人間として、万葉のいのちを筆にすることができる。
 鉄幹も私の友であった。かれの剛健さは同時に、大らかな雅びも生み出している。こころみに、次の一首をみよ。

 いにしへを吾とひとしき喜びに
 歌ひけらしよ安見児得たり

 「安見児」という古語をよく味わうがいい。やすみは「休み」であり「安息」である。「意気の子・つるぎの子」である雄々しい男性は、当然その闘いのあとに「憩いの家」を欲する。女性の転職は「やすみ」にある。男を安息させることのできない女など、不具であり、カタワだ。ニーチェも同じことを言っている。
 男が女を必要とするのは、この一点においてである。女に官能のうずきや痙攣の快感を求める男は、病的である。腐っている。真の男の求めるものは、無条件に「休息」である。コンクールで決まるような「美人」は真の男性になんのかかわりもない。鼻ひしゃげ、めっかちであろうと、その女が真に男に安息を与えるならば、かの女は「やすみこ」である。うつろな化粧に憂き身をやつす女どもよ、恥じて死ぬがいい。男を休ませ、次の日の雄々しい戦いに男を送り出す力のない女は女でない。オンナというも名のみである。
 世の女どもの味気なさよ。ふたこと目には「愛」を言い、餓えたメスオオカミのように愛の骨をしゃぶりまわしているが、その貪婪さは男を消耗させるだけだ。悪しき女は、腰抜け男を大量生産し、ちまたを薄汚い卑劣漢と弱虫でいっぱいにする。おお、その罪の深さ!
 男は創造の性、女は守成の性である。男が創造のエネルギーにおいて欠けるとき、罪の半分は女にある。もちろん、あとの半分は、そのような不出来の女をそばに寄せつけて恥じない男の側にある。
 女は粘土である。粘土をこね上げる指は男のものである。粘土そのものに何の価値があるか。「安見児」を創り上げるのも実は男である。タマゴが先かという問に似ている。脱線もしない先に、章を閉じる。ついでにこの本もオシマイにしちゃおう。
AZの人間革命