「読者が承知しませんよ」
 「そんなことはぼくの知ったことか」
 「だって事件はまだ解決してないじゃありませんか。話はまだ途中ですよ」
 「そうかもしれんが、死というものは、しばしば生きているまっさいちゅうに突如としておこるものだよ。事を計るは人、事をなすは天さ」
 「こんどの小説は大長編になる予定だったんでしょう。そんな結末ってありませんよ」
 「気の毒だが仕方がない。見たまえ、証拠をお目にかけよう」
 そういってふたたびペンを取りあげ、インキをたっぷりとふくませて、大きく『終り』と書いた。
 その後この事件は大訴訟となり、裁判長が「一千万人のフランス人の待望を無視するつもりか」と迫ったとき、デュマは初めて折れた。かれの面目躍如たるものがある。
AZの人間革命
32 赦すのもいい加減にせよ
 人柄のいい、つまり人間の質が平均以上のものは、とかく性善説に傾きやすい。
 しかし、人生すべて楯の両面あるがごときものである。なにごとにつけ、一方にかたむけば、その人間は倒れる。倒れては元も子もない。
 AZはバランスを取る生きかたを教える。生きかたといっても、それはテクニックではない。よくよく人生を観察すれば、すべてが潮の干満のごとく、陰陽正邪の交替によって「動」が生じていることがわかる。人生はあくまで、その動的相によってとらえねばならぬ。「静」に執するとき、その人は死に傾いている。
 性善説も性悪説と、微妙に釣合ってこそ、その本来の力を発揮する。人間の悪と愚かさを、すみずみまで味わいつくし、悲観主義の極点に達した人間でなければ、真の楽天主義を語る資格はない。
 私は教育家である。校舎は天地の間。教材はありとしあらゆるもの、森羅万象である。私はオメデタイ人間を製造するつもりはない。私は底抜けに明るく、オメデタサの標本のような相貌を呈しているが、内実はイカの塩辛のようにカライ人間である。私の額の八の字は、脳髄の奥まで刻み込まれている。私は狐のようにコスカライし、狼のように猛悪である。うっかり寄りつくと、鋭い歯にかかってアエなき最期をとげなければならぬ。
 私の周囲には、虐殺された死屍が累々と横たわっている。下手人は私である。怖れるがよい。

 「仏の顔も三度」という諺がある。この諺はまだ甘ちょろい。不動明王の形相を見るがいい。彼も仏である。しかし、彼は常時憤怒のまなこをカッと見ひらいて立ち、真理の保護者を以て任じている。いや、保護者というのはまちがいだ。真理はそんな脆弱なものではない。真理は保護を要しない。真理はおのずからほとばしって殺人剣となる。真理は容赦しない。

 世の信仰者よ、「赦さねばならぬ」という掟で自分をガンジガラメにするのはやめたほうがいい。掟は君のはたらきを弱める。君の生命を窒息させる。
 掟の要らない人間になりたまえ。杖がなくても君は歩けるはずだ。君の杖は、君のなえた足を甘やかしている。杖を棄てよ。棄てるのがいやなら、それを以て人を打つ武器に変えよ。
 憤怒は聖なる徳である。人間に与えられたもので、本質的に悪なるものは何ひとつ無い。すべては使いようだ。君の魂からほとばしって天地をゆるがす憤怒は聖なるものだ。それを生かせ!
 私の言葉を疑ってはならない。疑いには、悪魔を呼ぶすきがある。ためらいは魔人につけ込むスキを与える。
 丁々発止と生きよ。スキを作ってはならぬ。イキイキとすべての瞬間を迎え撃て。瞬間が瞬間に重なってはならない。「今」という瞬間は一つきりだ。それは、たちまちにして死して過去となり、面前には次の「今」がある。その「今」をつかめ。
 このように生きれば、君の味は冴えてくる。君の眼光はランランとしてくる。君の容貌は猛禽のそれとなる。

 私は今まで「くつろぎ」を君たちに教えた。自己の意志を無にして、大いなる天地の意志と一枚になる道を教えた。
 しかし、「くつろぎ」を「惰眠」と取りちがえる人がいく人も出て来たことを、私は看取する。眠りこけてはならない。くつろぎの次の瞬間には、活眼をひらいて、人生を撃たねばならぬ。人生は闘いである。生やさしいものではない。殺すか殺されるかである。
 AZの戦士よ、降魔のつるぎを持て。おきまり文句の「敵を赦せ」をはね飛ばせ。斬れ、殺せ。次の瞬間、相手は生きる。それが活人剣の極意である。
33 与謝野鉄幹の心意気
 鉄幹という詩人はなかなかの暴君であったらしい。近ごろかれの弟子たちがかれと袂をわかったテンマツを発表したのを、どこかで読んだことがある。
 かれの歌に、
 われ男の子意気の子名の子つるぎの子
 詩の子恋の子ああ悶えの子
 というのがある。
 この雄々しさを私は愛する。この心意気を私は壮とする。このイキのよさを、現代の貧血人種は次第に喪失してゆくようである。オトナどもが世にのさばり、すべての雄々しさを子供っぽさとさげすむような風潮がある。小ざかしいオトナどもを地上から一掃するのは、各種の「子」たちの命である。前章に私は「つるぎの子」のことを書いた。そのまた前の章のデュマがもし日本に生れていて、この鉄幹の歌をよんだら、あのちぢれ毛をふるわせて快哉を叫んだであろう。
 日本人の血には、古来からこの剛健の血が流れている。儒教文化のおしめりが、この国の大気をカビ臭くする前の日本人は、天地の子であり、自然の子であった。
 『古事記』をひもとくがいい。ケチな道徳など一かけらもなかったではないか。
 『万葉集』を朗誦せよ。太古の民衆の大らかさが、大海原の湧き立ちとともに、われらの魂を蘇生させる。
 私は『AZの万葉集』を書かねばならぬ。私をおいて、『万葉集』の真価を現代に再認識させる力量をもった人間はいない。私は国文学者でもなければ、歌人でもない。さればこそ、