640226/於大宮

 雑念の処理は、まずこれを嫌わないことだ。おのずから内部が照明されて、今まで気づかなかった暗黒中の塵挨のごときものが、いわゆる雑念として見えてくる。
 雑念はおおむね自我の利害や他人との対立抗争感にからんだものが多い。気がつくたびに、雑念を一粒ずつ神の光のなかに投じること。雑念に長くかかずらってはいけない。気がついた瞬間に放ち捨てる。そして透明な「空無」にもどる。
 拡散瞑想(KM)のなかに静止の一瞬または数瞬が生まれることがある。こういうとき、肉体と精神の動きは全く静止しているのが常である。呼吸なども、ふと気がつくといつまでも止まっているものだ。こういうとき、人はもっとも純粋に神を想い大師に愛の目を注ぐことができる。ここで、ほとんど自動的に、拡散瞑想は集中瞑想に切りかわる。この「晴れ間」に神の陽光を仰げ。大師の聖名を唱えよ。

 霊的発動(身体運動、発声、幻視、幻聴など)は抑える必要はない。しかし、自分から魂の快感に乗ってはいけない。発動のときはまっすぐ内面を見つめるべきである。自我力で拍車をかけるのも不可。それらは不要のものから消えてゆく。
 ただますます何もしないこと。ますます力を抜き、全能者にすべてをゆだね、完成の大師を讃え、神の栄光を崇める。

 やすらかに、幼児のごとく素直に、また柔軟に、己れを打ちまかせて行くこと。赤信号が出れば止まり、青信号が出れば進む。止まればならないときに進んだり、進まねばならないときに止まっていたりしてはならない。
 無限に注意深く、無限に綿密に!

 グループ瞑想のとき、肉体存在としてのリーダーに気を取られてはいけない。リーダーは自分の中にあると思い、深く自己の内面に潜入せよ。内にもぐる力に比例して、外側の雑音・寒暑・苦痛その他の妨害は消えて行く。

 グループ瞑想において、周囲への顧慮で自発的な表出を抑える必要はない。同修者全員がそっくり自分の内面にあって、一体として瞑想をおこなっていることを悟れ。
 真に自己に正直であれば、見せびらかしや誇示の気持ちはなくなるはずだ。密室の単独瞑想と集団瞑想とは本質的に一つである。
 ただし、一人では持ち上がらぬ荷物も、二人三人の力を借りれば楽に持ち上げられるものである。壁にぶつかった修行者はひとりで悶々とすることなく、近隣の同修者(先輩後輩の別なく)を求めて瞑想を共にするがよい。
 サイキック的に感度の高い人は、いわゆる心霊体験を豊かに得るものであるが、これに自我的関心を寄せるときは大きなつまずきの石となることを知り、ゆめゆめ高慢におちいってはならない。神人融合の最終ゴールに比すれば、途中の景観は無に等しい。道草を食わぬこと。登れば登るほど謙虚になること。

 霊的感度がにぶいことは恥ずべきものではない。途中のおとし穴に落ちることなく目かくしのまま山頂に連れて行って下さる大師の慈悲の故と知るべきである。

 忍耐と持久が第一である。期待しなくなったとき、修行者は第一の開門をくぐる。でくの捧のごとき自我に直面して不服を言わず顔をそむけもしない者は第二の関門をくぐる。

 霊性と心霊の区別を深く知るがいい。瞑想の目的は、自我の死とサンスカラ(魂の歴史における印刻)の消去である。霊能力を得たいなどと秘かに望む者は、早く眞理の門から離れ、外道・邪道のともがらにおもむけ。

 瞑想に入るときは、これから死ぬのだと覚悟せよ。死に切れなかったら、何度でも白装束をして死の門を叩け。

 我の死ーーーこれなくして真の「生」はない。

 単独瞑想において、その方法を知らない者は、三十分の連続唱名行(しょうみょうぎょう)から始めるがいい。メーヘル・ババの御名を呼び、息の切れ目にAUMを唱えよ。


[後記]たまたま私の通った「道」をあとから進まれる同胞のために、枝を折って
   道しるべとするほどのつもりで、断片的に記してみたものである。
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瞑想のしるべ