[近記]あれから32年

 今から32年前といえば、私も38歳の若さ。関東大宮在の陋屋に住んで、翻訳で内妻・安田吉江とその長女・曜子を養っていました。貧しさは今と同じで、月賦の背広の集金人が来ても、あいlこく現金がないときは、「きみ、悪いけれど、君の自動車で質屋まで僕を運んでくれないか」と頼みました。向こうは快くそのようにしてくれて、無事月賦のお金を彼lこ払うことができました。質草はその洋服でした。それはきっと流れたと思います。

 背広の要らない生活lこ入りかけていました。「瞑想のしるべ」を書いたころは、インドのメーヘル・ババに必死に食い下がっていました。死にそうな苦しみを経てから、1963年には彼と合体する神秘体験を得ました。
 メーヘル・ババは若いとき、シルデイ・サイババに会って、その足もとlこ平伏したところ、後者から「汝は神なり。よし、アヴァタルとして往け」の印可を受けました。このことはサイババ(初代と二代の)の信者lこ殆ど知られていません。サチャ・サイババの信者のなかには、メーヘル・ババは道化者(joker)だと、本気で信じている人すらいます。
 メーヘル・ババは奇跡願望を遠ざけ、「奇跡はイ工ス・キリストのときで充分。わたしは奇跡を行わない」と明言しました。彼は全世界を旅行し、ハリウッドにも影響を与え、神的(霊的という日本語は誤解が多い)な映画を制作するように導きました。
 アシジの聖フランシスの祠(ほこら)にお参りしたときは、フランシスが断食して祈ったのと同じ洞窟にお寵りして終夜祈りました。スペインに行ったときは、お祭りに遭遇し、彼はその群衆のなかに入って、広大なオーラ施与を致しました。
 メーヘル・ババの生涯は1969年に閉ざされますが、当時の弟子も現在の信者も、彼の本質を何も知りません。私は昭和30年代に、ババより直接、『講話集』( The Discourses) を日本語lこ翻訳することを委嘱されましたが、その後の繁忙により、その約を果たしておりません。もうすこし、長生きを許されたら、また助手に恵まれたら、この仕事も果たすつもりです。

 そういう背景で、この「瞑想のしるべ」が書かれたということを、どうか認識してください。今の私なら、まったく別様の「しるべ」を書きます。呼吸瞑想に主眼を置き、唱名30分というような無理は申しません。
 要は、神lこ対する愛が溢れていたらいいのです。また、瞑想の姉妹である祈りlこおいて、「祈りかたも解らぬ私ですから、どうか一緒lこ祈ってください」と訴えるべきです。何もかも、神さまに手を取ってもらって、−歩一歩進んでください。何かの宗教に属している人はその宗教と調和しつつ、全知・全能・全在・全愛の宇宙創造神(親神)のふところに溶け込んでください。それしかありません。

                                961114/ヤマト橿原市にて
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