1 私は動物であった
 インドネシア語で人間のことをマヌシア(MANUSIA)という。ムハマッド・スブーによると、その語源的意味は「人間的性質の容れ物」ということだそうだ。
 ここで面白いことは、われわれが一口に人間と呼んでいるものが実は、「中身」と「容器」の二つに分けられるという点である。
 人面獣心などという言葉が日本にもあるが、容器だけのニンゲンが世の中には多いものである。多いどころか、ほとんど全部の人間が似て非なる人間である。人間の皮をかぶった動物がそこらにウヨウヨしているし、ひどいのは、動物にすらなりきれず、「物質」が人間の皮のなかに入って我が物顔にふるまっている。ナマリ色の顔をした重苦しい感じの人間は、おおかたそのたぐいである。
 ところで、かく申す私が動物級であるということに気づいたのは、ごくごく最近のことである。
実際、なさけない話であるが、私は生まれて以来三十有余年、自分が人間以下の中身を後生大事に持ちまわっていたらしい。
 『AZの金銭征服』などという本を書き出したくらいだから、物質力のほうは大分片がつき、植物力のほうもたいていはモノにしたつもりであるが、動物力に対しては、まだまだゼロに等しい。
 その証拠を並べると、

(1)私はひとから褒められると喜び、非難されるとクサる。
(2)私は衝動的に他人に強い言葉を投げたりして、相手がどのように傷つくかということを考えてもみない。むしろ、これは他人のために鍛錬になるなどと言って、ウソブイテいる。
(3)私は他人を屈服させることに快哉を叫ぶ傾向がある。やっつけられるまえに、こちらから攻撃に出る。相手に自分の考えかたを押しつけ、それが受け入れられると、大変いい気持ちになる。
(4)私は他人を批判し、自分の思想や行動のほうが真理に近いと思いこみやすい。自分は正しいが、他人はいつもまちがっている、とツイ考えている。
(5)私は好き嫌いの感情がつよく、電車に乗っても前の席にニガムシを噛みつぶしたような男(女)がいると、厭な野郎(女郎)だと思い、そちらをなるべく見ないようにする悪癖をもっている。
(6)私は自分が軽蔑している男(たとえば三島由紀夫)が成功すると、ナンダアンナヤツと糞おもしろくもない気分に襲われる。
(7)すべて、私はお山の大将が大好きで、なんでもナンバーワンになると、心持がいい。イヤな野郎だ。

 まだまだ幾つもあるだろうが、これだけ並べてみても、自分が人面獣心(身)の男であることがよく分かる。
 いっそのこと、このケダモノメと誰かが私を罵ってくれればよかったのだが、私はカモフラージュがうまく、口上手で巧みな逃げかたをするので、だれも私の尻尾をつかまえたものがない。シッポ−−なるほどこれも動物の徴候だ。
 世界スブド同胞会の建部哲也さんは、さすがにケイ眼の士で、つとに、私が「動物」であることを見破っておられる。それで、この動物君がいつなんどき手綱を切って暴れ出すかわからないので、いつも警戒しておられるようだ。まことに申しわけない。
 スブドとは何ですかとよく聞かれるが、いちばん端的に言って、スブドは人間を人間にする方法である。
 人間が人間になると、その人の人生視野は実にひろびろとしてくる。生活に緊張とリキミがなくなって、子供のように無邪気に、スズメのように快活になってくる。私にも、そのことがウスウスと感じられる。
 いろいろの、外部からの重圧から解放され、この世の主人公である「人間」の姿が大きく浮かび上がってくる。これこそ、本当の「神の子」であり、神にすべてを委任された地上の宰相であるである。暴君でなく、仁慈の君である。
 しかも、人間同士が本当の兄弟姉妹になり、支配被支配の関係がなくなる。王侯の交際になる。押しも押されもしない。押す気がないから、押されもしない。押される弱みもないから、押しもしない。
 そういう素晴らしい世界がハナの先にぶらさがっているのに、動物の境涯がすてきれず、むやみと争闘や嫉妬を事としている私は、なんという阿呆か!
 私は「人間」にならなくてはならぬと本気に思い出したのである。人間になるには、まず自分が「動物」であることを悟らねばならない。また、仲間の「動物」がどんなことをやらかそうと、馬耳東風、柳に風と受け流し、せいぜいつき合わないようにするべきである。ほめられてもクサされても、いっこうに感じない不動心が必要である。
 しかし、こういう立派な境地は、とても私のような動物めには無理である。動物には自分を人間にする力はない。
 ムハマッド・スブーは、ハッキリと、いくら努力してもだめだと言っている。せいぜい心を安らかにし、この身体を神のまえに放り出し、魂のなかに働らく神の力によって、すべてを創りかえてもらわねばならない。
 祈りの秘訣は、すべてこのことに帰着する。心をむなしくして、ただ待つことである。叫んだり、あがいたりしても効はない。水底のハゼが、水を澄まそうと思ってジタバタしても、結果は逆になるのは判りきっている。
 スブドの道とは、もっとも楽な道である。親鸞のように、自己のすべてをアミダ仏にまかせてしまうのである。念仏も、念仏申す心がホトケの側から湧いてくるのを待って、かたじけなくナムアミダブツと称えるのである。ほかにない。
 われというわれが死んで、キリストがこの身に生きるといったパウロのように、もう動物のほうに加担するのはやめることだ。クリスチャンを追いかけ廻していじめていたのは、動物のサウロであった。
 しかし、このスイッチの切り換えは大変なことである。百尺の竿の先までよじのぼって、もう先のない所でヒラリと空間に跳べと命じた禅の和尚さんは、ごく当りまえのことを言ったのだが、この命令を受ける者にとっては、まさにイノチがけのむずかしさである。
 だが、やっぱりこの難しさは、ほんとうは極めてやさしいことなのだろう。百尺竿頭、アッ今おれは跳んでいると気づくことなく、跳ぶやつは跳ぶのであろう。それまでに、竿をまた逆もどりして地上に降りようと決心する卑怯者もいるし、竿の先にしがみついたままブルブル震えつづける弱虫もいるだろう。しかし、跳ぶやつは跳ぶのだ。困難か容易か、跳ぶ者にとっては何の区別もない。跳んだから跳んだというだけのことである。
 これから先の、一歩突込んだ説明はもうコトバでは不可能であろう。私はせめて、自分が動物であることを認める動物自覚派がふえることを祈っている。そうしたら、だれが先でもいい、人間に昇格した人から、経験談をききたいものだ。私もセッセと励むから、君もせいぜい精進してくれたまえ。おたがいに引っぱり合って、本物の「人間会」をやりたいものである。
『AZ』 5号