『AZ』 5号
2 人間は笑う
 動物のリンサンのくせして、人間のことを書くのかなんて言って笑わないでください。
 いや、まちがった。大いに笑って下さいと言うつもりだったのです。
 動物は笑わない。人間は笑う。これは本当だと思う。もちろんマンガ映画などでは、動物も大いに笑う。特に馬など笑わすと面白いから、スクリーンでは大いに笑う。しかし実際には高下の別がある。おそらく天使は爆笑などしないであろう。エリザベス女王や日本天皇が大口あけて笑われたなんどという、あまり聞かない。人間仲間においてもそうだから、天使もおそらく微笑するのだろう。
 とにかく、微笑は上、哄笑は中、ニヤニヤ笑いやニガ笑いは下の部であろう。赤ちゃんも、微笑が主で、ときどきクックッと笑う。
 ベルグソンの著書にも「笑」に関するものがある。かれの論点は、逸脱した個人に対する社会の制裁が笑いであるというのにあったと思う。たとえば、朝ズボンをはくのを忘れて家を飛び出し、停留場までかけて行ったとする。おそらく人は笑うであろう。社会で決められたしきたり、皆がそれに従って生きることによって安心感をおぼえる慣習から、ある個人が抜け出したので、そのズレを埋めようと思って笑うのだと、ベルグソンは解釈する。笑われたそのソコツ者は、ハッと気がついて、ズボンを取りに家にもどる。そこで世間は笑いをやめるのである。
 しかし、私は私なりの「笑いに関する哲学理論」をもっている。それを簡単に述べれば、まず人間は意識すると否とによらず、自由と解放を本能的に求める生物であるということだ。もっと平たく言えば、リンゴが地球の中心にむかって引っぱられるように、人間は「よりラクな方向」にひっぱられる。なるべく緊張しないで、自然にまかせた、ノラリクラリの生活のほうに行きたがる傾向があるというのである。
 そうすると、人は反対して、いや実業人たちは、巨億の財産をかかえながら、なおかつ旺盛な事業慾にかり立てられ、1日24時間ねむる間も惜しいほどの活動ぶりではないか。かれらは決してノンベンダラリを欲していないぞ。
 それはその通りである。しかし、そういう事業慾というものは、一種の不安のあらわれと見ることができる。かれらはたえず自己を拡大していかないと、塩をふりかけられたナメクジのように消滅してしまうのではないか、という不安をもっている。在りし日の五島慶太が堤康次郎と張り合ったようなものだ。敵を叩きつぶし、いつも自分の優位を誇示していないと、安心していられない気持。
 すべて征服慾とか焦燥とかに駆り立てられているあいだは、その人は「自由人」ではない。かれらは現在に「欠乏」を感じ、将来に「充溢」を見出そうと思っている。肩書も5つあるより10あったほうがいいし、資本金三千万円の会社の社長椅子に収まっているより、やはり十億円の会社の長となりたいのだ。
 このような慾はキリがないから、この慾(物質慾・権勢慾・名誉慾・事業慾・etc.)につかまれているあいだは、人間は奴隷のごときものである。たえずキリキリ舞いをさせられねばならぬ。要するに、かれらは「不自由人」である。
 かくのごとく、貧富賢愚の差別なく、おおむね人は不自由をかこっている。されば、すこしでも、自分をガンジガラメに縛っているナワがゆるむと、ラクになって、生理的に笑うのである−−生理的にである。
 人は寄席にゆく。解放を求めに。八公、熊公のたぐいは、おおむね阿呆である。世間のたたかいで、利口者を相手に大いにたちまわりをやったあとだから、馬鹿ものというのはそれだけでくつろぎになる。警戒心をゆるめてアハアハ言っていればよい。西洋のピエロというのもそれだ。
 それから地口・しゃれというのがある。これはなぜおかしいかと言うと、日常の生活では、頭脳作用における観念の結びつきかたが、だいたいもう型にはまっている。こう来ればああ、ああ来ればこう、とそれは反射的な動きである。頭をしぼって考えるとはいうものの、それは百万人が認める公理をいくつか作って、むずかしい方程式をとくようなものだ。根本はきわめて簡単な理屈である。たとえば、商売において、百円で仕入れたものを五十円で売っちゃいけないというようなものである。
 ところが落語の世界では、あらゆる公理がご破算になる。言葉は社会の約束から離れて、かってにヒョロヒョロ動き出し、とんでもない言葉と結びつく。聴衆には何の利害関係もないから、恐怖感はともなわない。ただ、お定まりでない、意外な、突発的な言葉の宙返りに、ホッと気を抜かれ、緊張がとけて笑い出す。
 ユーモアは必要だ。ユーモアのない人間は大成しないと、これは常識人の世界でも言われる。なぜかというと、どこを押しても叩いてもユーモアの出てこない人間というのは、頭のてっぺんから足のつま先までコチコチで、いたるところ緊張だらけ、ゆとりというものが少しもないからである。そういう人の前に出ると、みんな伝染して、ああ苦しい、肩が張ってくるとひそかに思う。人間は苦しい所には寄らないから、そのコンコチ人間のそばから遠ざかるようになる。だれも寄りつかない人間、敬遠型は成功しない−−これは見やすい事実であろう。
 ユーモアのある人間は真の自由人である。人生をさかさにしたり、裏返したりすることが自由自在である。人生のほうがしぶとくてビクともしなかったら、テメエのほうがトンボ返りをすりゃいいと思う。借金が百万あったって、牢屋に入ればいいんでしょう、牢屋に、とウソブイでござる。
 ユーモアに富む人は、人生に密着していない。人生から、いつも、程よい距離を保っている。人生はトリモチのようなものだということを知っているから、それに粘りつかないようにしている。かれは本気で悲しんだり、本気で喜んだりしない。かれはむしろ自分のことを役者だと思っている。百万人の人を前に、本気で喜んだフリができたとすると、その演技のうまさにひそかに拍手を送っている。
 人生から離れているということは、利害打算が行動の動機になっていないということである。上役からアタマを引っぱたかれても、そういう自分がおかしくて、ワハワハ笑い出すようなたぐいである。そういう男が、その晩同僚に囲まれて昼間の事件を語るとなると、徳川夢声そこのけの名調子になるだろう。なぜなら、この物語の主人公は、だれよりもよく知っている「オレ」であるし、その目撃者はその「オレ」に一番近い「オレ」であるからだ。いちばんよく知っている題材を、いちばん客観的に語れば、名調子になるではないか。
 「そのとき、オレはな、コンチキショウと思ってさ、脇にあった文鎮をサッとつかみ・・・」
 ここで、その時の怒りと興奮がもどってきて、唇がワナワナとするようじゃ、聴いているほうもなんとなく落ち着かぬ気持になってくる。聴くに耐えぬというヤツだ。
 しかし、まことのユーモア人は、次のように話をつづけるだろう。
 「その文鎮を課長のハゲ頭の真上にボカッと落とそうと思ったんだ。するとな、ふとインスピレーションがやってきてさ、ここでこいつを気絶させたら、たいへんだ。会社中がハチの巣をつついたようになれば、せっかくの給料日なのに、会計係の女の子も、氷嚢を買いに薬屋に飛んでゆかされるかもしれんし、せっかく帰ってもマーキュロを買い忘れてきたらもう一回お使いに出されるかもしれん。すると、4時に出るはずの給料も6時ごろになるだろうし、オレもひょっとして課長をなぐり殺したということになれば、留置場行きだから、いったいだれがオレの代わりにサラリーを女房に届けてやってくれるか・・・・」
 「わしが行ってやるさ」
 退役軍人のハゲ山氏が口をだした。
 「うん、ハゲさんなら親切だから、そのくらいのサービスをしてくれるかもしれないが、もしもだな、オレがハンコウをハゲさんに渡すのを忘れてブタ箱にしょっぴいて行かれたとしたら、とにかく、サラリー袋が家につくのは8時や9時にはなるぜ」
 「おい、リンサン、それで結局なぐったのか、なぐらないのか」