1 テープと語る
 ある日、青山のKさんの家にお邪魔をして、あれこれ話しをしているうちに、自分でも思いがけなく出てきた言葉がある。それは次のようなことばだ。
 「私は青、世間は赤、私が世間に近づいて、世間にまじると紫になるのかもしれない」
 これは私が頭で考え出したというのではなく、むしろ口のほうが勝手にしゃべりだして出たことばであるので、同席していた妻も、何かちょっとびっくりした表情で私の顔をみた。
 それは、どこか前に書いたように、AZを動かしている力が、「紫の光」ということばで象徴されるあるものからきているらしいということである。なぜ紫か−−私はその意味を考えたこともなかった。それについて何か答えがでてこようとは全然予期していなかっただけに、このようにお筆先ならぬ、お口先で知らさせたことは、軽い驚きだったのである。

 それから、次の日の夜になって、私は急に思い出して、かたわらのテープレコーダーをまわしながらこの文章の口述を始めた。
 ものを表現するにはたしかにある媒体または手段を必要とするが、絵かきの場合でも、油絵具を使ったときと水彩絵具を使ったときとでは、同じ風景を描いても、全くちがった感じの作品ができるだろうと思われる。それと同じように、ことばを媒介とするときでも、実際に自分の手にペンをもって書いていくならば、指の動く速度はおのずから限られているので、思想が流れ出すテンポはいやおうなしに筆の速度に合わせようとしていくものだ。つまり、思想のほうはおそらく無限といってよいほどの速度をもっているのだろうが、鉛筆と紙を経由してこの世にあらわれるためには、やはりある種の制約をうける。
 このことに限らず、人間はいつでも、いま必要なもの一つだけが目の前にあればそれで充分なのであって、文章を書く場合にも、ペンが山という字を書いているときは、頭のなかに山という字だけあればよい。事実私がものを書いているときは、二三字先のことや、ましてや数行先のことはほとんど考えていないことが多い。それにしても、ものを書く速度は、たとえば原稿紙で一時間に四、五枚のものであるので、これはちょうど競馬ウマの足に重い鎖をつけて走らせるのに似ている。
 それでこのテープ・レコーダーという方法だが、これは私がいま経験中であるように、一ぺんことばを出したら、それは瞬間に過去のなかに消えていき、物質面では何センチかのテープに記録されてまきこまれて行っている。そうすると、いまから一分前にどんなことをしゃべったか、それを思い出すことはひじょうに困難である。また私の性質として思い出すという作業はめったにやらないので、これが紙とインクならば、目を走らせて前のところをちょっとみるということができるが、しかしテープでは前のところをちょっと復習しようとすれば、指を使ってスイッチを逆回転のほうに回さねばならないという手数がかかる。この点でもめんどうくさがりの私は、とうていそんな気にはなれない。それでもかまわず次々とことばを出していくわけだ。どんなものが出ていくか、筆の場合よりももっともっとわからない。予測しがたい。いわば瞬間瞬間が勝負なのである。いつもあいてにしているのは「今」だけなのである。
 それでこうやってテープにむかって話をしていると、この方法が昔の指とペンと紙の仕事よりもずっと霊的であることがわかる。私が使っているのは、目に見える物ではなく、ただ目をつぶって、自分ののどから出てくる声を聞いているだけである。そうすると、書いているのが、いや、しゃべっているのが私である、という意識がしだいしだいに薄らいできて、私ののどがかってにことばを送り出し、それを私の耳が聞いているという、たいへん新しい発見がある。
 この場合、私の全注意は、字がうまく書けたかとか、文法的に構成がいいとか、その他、より物質的な考慮に向けられないで、むしろことばとことばのあいだの静寂のなかに自分の魂のうごきを観察しているという状態であった。
 これはみなさんが日常生活でよく経験することであろうが、何かうそを言ったり、口に出すことばをはばかるようなことを言った場合は、声が震えたり声の音色が変わったりすることが自分でわかるものである。自分自身を眺める習慣のついた人は、こういうとき、何が正しいか、まちがっているかということを知ることができる。それと同じように、私がこうやってテープ発言をしているときは、自分の思想がなるべく霊のほうに近よって、そこから発するようにコントロールすることができる。
 いままでは、AZの書きかたとして次のような場合もあった。それは何やら人生上のことで、ある種の憤りを感じて、それが心のなかである熱いかたまりとなり、それをほぐし溶かすために筆をもつことがある。もちろんこの場合も、ペンは一瀉千里を走り渋滞することはないが、出来上がったものを見ていると、そのときの私の思想の喘ぎや興奮やほとばしりがすみずみまで出ている。そういう文書がいままでにもしばしばAZに出てきた。ある人々は、私のいわゆる「ターザン的」または「リンさんのタンカ」といったものを、とくに喜び歓迎する傾向もあった。また別の人々は、このようなのがでてくると、ああまた悪いくせがでたと私のために悲しむ場合もあったのである。
 この章の初めに出たKさんは私に忠告をして、業のほどけていく過程の文章ではなく、直接、天の啓示を受けて書いたような文章がだんだん多くなって、しまいにはAZ全体が純粋の霊感でみたされたものになってほしいと希望されたのである。
 それに対して私が思ったのは、なるほどそうしたいけれども、文章の創造過程においては自分ではとてもコントロールがきかない。みそもくそも一しょであっても、それを出すエネルギーそのものは一つの生命力である。これをたとえてみれば、貯水池からわが家の水道栓までの圧力は、隣家の水道栓までの圧力と全く同じであっても、もしわが家の水道の鉄管の内部が赤さびであったとしたら、わが家の台所だけが赤い水でいっぱいになる。これは水圧自身が悪いのではなく、わが家の水道管が悪いのである。全くそれと同じように、私の文章が悪いとすれば、それを書かせる力が悪いのではなく、私の鉄管にまだこびりついている赤さびが悪いのである。だから赤さびの出ないように圧力をかけてくれとこちらから水道局にお願いしても、それは無理というようなものだ。
 それで、いつか心霊医学会で、相見三郎さんという霊癒をやっているクリスチャンに、AZはどうやって書くのですかと聞かれたとき、
 「これは自分で書こうとしても書けるものではないので、書けるときまで待っています。書けるときは次々書けるが、書けなくなると全然書けない。ですから執筆スケジュールは全くたたず、その日その日の波に乗っているだけで、出てくる作品の質については、なるほど自分の頭や標準でみると、玉石混交ですが、これが別の人の標準からみると、私の価値評定と全くかわっているのかもしれません。その点、私は自分の価値判断基準を信用していないのです。
 一体どこに絶対判断基準があるかというと、それはきっと神様の心のなかだけでしょう。ですから私は、善い悪いの選択をしないで、そのまま書いたものを世間に見せているわけです。そうすると、ある場合にはずいぶん激しい攻撃がくることもありますが、そういうときのむちは喜んで受けることにしています。ほめられればただもう簡単に喜んでいます。」
 だからいいものを書こうとか、出来たものを並べてみて、不良性のある子供を勘当するような方法は、とても私には採用できない。それじゃ永久に私の文章がよくなりそうもないという気もするが、過去の十冊をふりかえってみると、ちょうど潮が満ちてくるときのように、
『AZ』11号