『AZ』11号
寄せたり、返したり、プラス・マイナスの振動をくりかえしながら、それでも少しずつ前に進んできていることが分かる。だから、だんだんよくなっているという点では、私には何の心配もない。しかし何かの調子で、このようにテープで思想を表現するということを発見し、その表現過程を内的に感じとって見ると、これは私にとって最上の手段ではないか、そんな気がしてきたのである。
もちろんこれをやるには、私がしゃべったことを後できれいに原稿用紙に整理をして、印刷屋さんが使える原稿に仕上げる助け人が必要である。その点いまこのテープを整理してくださっている同胞の近克勇さんに、心から感謝をしたいし、また近さんが私のそばに現れてこなかったら、この方法は決して陽の目をみなかったであろう。
テープによる執筆は、いままでの、たとえば中風や書痙のような原因で、からだの利かなくなった文壇の老大家が、秘書を使ってボツボツと原稿を口述したのとは、一つの点において重要な差異がある。それは、口述の場合は秘書の手の速度がどうしても逆にはね返ってきて、口述者の想念速度に束縛を与えるのである。よしんば筆記者がひじょうに速記のうまい人であたとしても、その人のペンが速すぎて、口述者のことばを待っているという状態になると、はやく次を言わないかなアとか、もう少しこちらのスピードを下げようかなとか、そのたびにいろいろの念をおこすのが、やはり口述者(たとえば老大家)に影響を与えるであろう。
ところがテープ口述においては、私が相手にするのはただ一つ、私の魂だけである。魂の動きだけをじっと見つめ、一つのことば、次にまた一つというように表現していく過程は、純粋の無心作業であって、うまいことを言って群衆のかっさいを受けようという心もでてこない。
もし私の過去に書いたもののなかで、何かおもわしくない表現、ことばの使いかた、話しのもって行きかたがあったとすれば、それはペンと紙という物質的障害に魂がさえぎられて、そこに生じたすきに、何か低い力が働いたのにちがいない。
いまこうやって目をつぶっていると、ちょうど私が目のするどい警官ででもあるかのように、目の前を通り過ぎる想念を、一つずつ身体検査することができる。それは手を使わずただ眺めているだけでできるのである。低いものがちょっとでも頭をもたげると、その瞬間すぐ分かる。これほどはっきり自分が検閲係であるということを悟ったことはなかった。
何も出てこなければいつまでも黙っている。もう出なくなればそれでおしまい。おしまいと思ってもでてくればまた言う。ペンを使っていたあいだでも、一度書き出すと、いつ終わろうとか、どのようにまとめようとか、そういう意識がほとんどなかった私であるが、いま目をつむってテープ・レコーダーにしゃべっていると、まさに一瞬後がくらやみ、一瞬前もくらやみ、相手にするのは今ばかり、私のことばが止まるのは、全くあなたまかせという状態である。
2 女のお尻と猫の鼻
物知りの友がそんなことを言うので、
「なんだね、それは?」ときくと、
「両方とも冷たいということさ」
と答えるのでハハアと膝を打った。
私にはどうもツマランことにひどく感心するくせがあって、いっぺん感心すると、それがなかなか頭を離れず、そのうち、砂のなかに磁石を突っこんだみたいに、ビッシリと砂鉄がついてくる。これは思想の核とでもいうのか、私のようにつねづね散漫であって、あまり想念の追及をやらぬ人間には、必要なことらしい。
しかし考えてみれば、女のお尻とネコの鼻とは奇妙なとリ合わせである。それで両方とも冷たいという共通因子をもっている。思うに、女のお尻が冷たいのはタップリ脂肪がついているからだろうし、ネコの鼻のほうはたえず外気にふれているせいだろう。
私がこのコトバに感心したのは、これもまた天地の真理を語っているからである。熱の発生源・燃料である脂肪が、人体の他の部分よりも冷たいということは、脂肪の熱伝導性とかなんとかで物理的にはすぐ解釈がつくが、人間の心の暖かさ、冷たさということに当てはめてみれば、女の尻のごとく人の目につかぬ所に蓄積した「魂の脂肪」は、人には冷たく感じられるものであるーーこのことを発展させてみたい。
AZ的生きかたが次第に身についてきて、人間が率直純情になり、また人や自分の苦しみ悩みを達観する(つき放して見る)練習が積んでくると、その人間の表て向きの感じは「冷たく」なるであろう。
「わたしの悩みにチットモ同情がないのね」と怨み言をいわれたり、愚痴をこぼされている人は、きっと私ばかりではあるまい。こんなことを言うと、リンサンがいかにもしょっちゅう女房をいじめている意地悪亭主のごとく聞こえるが、このごろは別にそういうこともない。女房のほうがだいぶ進化してきて、私の小型みたいになってきたから、今度はかの女のほうが人から、
「あなたはいつもシャアシャアしているのね」
と文句を言われる番である。
人間のくさぐさの悩みは、それから離れて何年もたった人には、なかなか実感をもって迫ってこないものだ。あらゆる悩みがみんな絵空事のように見えてくるから妙である。
(いずれは過ぎ去るもの・・・・・)
というように、自分の過去に照らして、悩みの本体が透きとおって見えるから、泣いたり叫んだりしている人が鼻先にいても、実はその人の奥底には、どんなことにも動かされない平安と静寂がひそんでいるばかりか、こちらの心にひびいてくる。
悩みに巻き込まれないということは一つの進歩である。自分にケシ粒ほどでも共通の因子があると、それが相手の悩みに共振して、
「それは大変ですなア」
と深刻な表情も出るが、本当に卒業していると、相手の悩みのふかさに関係せず、ニコニコとその顔を見ていられる。
「冷たいな、きみは! 少しはぼくの身にもなってくれよ」
「うん、きみの身にもなろうかな」
手ごたえのないことおびただしいが、実はこの「のれんに腕押し」が人の苦を救うのである。一しょに悶えまわっているのでは、何の解決もつかない。
冷たくたって、それは表面の触感のこと、中身は純乎たる良質脂肪である。そ