『AZ』11号
☆また、新宿区市ヶ谷富久町16・高橋英子さんは −

 59頁の11行目
 「そこがいいな、そこがいいと思いませんか?」
 「思います。そこがいいですね」
 12章の意外(?)な詩でリンサン(と呼ぶのは一寸ためらいを覚えますが、これはあなたへの愛称になっているらしいので、失礼お許しください)の彫りの深さを見出します。「そこがいいな」と思うのです。一方的なことばかりを強調されると、「手段だナ」とひがみたくなるし、「手段」ならナメられているようで愉快ではありません。形に影が漂うように自然な姿を見ることが、知ることが一番安定感があっていいですね。

○AZ入会後の気持ちが大いに変りました。利害を越えて人の苦しみを救いたい気持ちのままを実行に移した事があります。先月先生にお願いしました反抗期の少女の件がそれです。本誌8号3章の12頁「人間は変わるのが本当だ」15頁3行〜9行をそのまま−
欲しい8号をきょう送本依頼しようとしているとき配達されて来ましたし、打ち合わせもせずに会いたい人の行き先を尋ね得た事もありました。
                     (島根県八頭郡河原町浅田186・野口津根)

○今年こそはと思いつつ実現出来なかった諸問題が「AZ」誌で何もかも包含してくれる気がします。自分の心が「AZ」誌のような包含力を持っていたらどんなにこの世が楽しいことか!
「AZ」誌の真の力がこの世の浄化に役立つよう。
                        (尼崎市尾浜字国元1の1・岡井吉隆)


○AZは未完成の雑誌だと思う。もっとも、多くの読者(私を勿論含めて)が未完成の人間ですから、未完成の雑誌の破調ぶりに好感を寄せるのだと思います。
混沌としている中に純粋さを求めようとする魂の誠実さが溢れている特殊な仲間たちの雑誌だとでもいう気がして非常によい。こういう雑誌が日本で生長することを同胞として誇りにしたいと思うので、今後も驥尾について師事し続ける。
                      (静岡県焼津市中港町282・多々良橋雄)

○本書は万人の人生行路に不安を取払って自信ある生き方を指導開眼せしむる聖書と考えて座右に置いて居り、毎日の職場の話題に提供しております。
心から賛意と共に協力したい気持ちになったことは、この8号が最初と言い得ます。
                       (岩手県稗貫郡大迫町4-24-3・山田 実)

☆指の屈伸運動をして体内細胞を強化する器械が出ています。名は“強心器”−−カタログ求め先は 東京都新宿区中町14 日本オイラーKK医療器部。

☆琉球に興味がある人に −−
「今日の琉球」という雑誌があります。琉米人の理解を深める理解を深めることを目的として発行された雑誌で、琉米相互の利益を図る琉球人の自由な立場から書かれたものです。お申し込みは、沖縄那覇市琉球列島米国民政府渉外報道局出版課へ。

☆場所は離れても、AZ同胞同士の企業合同というものを考えている人はありませんか。次のアイデアをお読みになり、希望のかたは職種の条件などこの場を使って同志をつかんで下さい。

○希望として現実の社会活動は合理化大型化に進みつつあります。AZ同胞として独特の経営の変化という様なことものせて頂けたらと思います。同じ一つのものなら一人で色々心配するより思い切って合同しては、というような人はありませんか。
                      (北海道士別市下士別42線東・永峰茂幸)

○誌友の皆さんの中で、大法輪1月号信仰相談室の頁に、『夢で霊示をうけた埋蔵品』と題して解答が出ていたTS生さんの住所を知っておられる方がありましたら一度お知らせ願えないでしょうか。               (名古屋市千種区猪高町東一社502・加藤吉男)


A Z 記 録
静岡AZのリポート
 「AZ」が金星の長老の名前と同じだったとかという話が9号にのっていたが、とも角「AZ」なるものは、あれとかこれとかいう概念をこえているらしい。
 その「AZ」の集会が、2月11日夜、東京からのリンサン勢3人を迎えて、ここ静岡にも開かれた。
 この夜、近藤さん宅は、遠来浜松からの花井さんを加え、15人程の会員で賑わった。ことばの詮議ばかりで恐縮だが、会場玄関のはり紙が、「AZ会」でも「AZ会場」でもない「AZ」だけなのが、何かそのものずばりの感じでボクには気に入っていた。
 さて会が始まるとまさにその如くで、お互いの話がはずむほどに、「無形のAZ」とでもいったものがわれわれの胸をひたし、座を包みはじめたような気がする。
 話しはまずリンサンを皮切りの自己紹介に始まって、「はじめのAからおわりのZまで、毛色のちがった仲間もいるぜ」といった具合に一座をまわした。
 なかでも、リンサンの後を承った村田親弘さんが、何と読むのかと名まえを聞かれたのに答えて、「ソンダシンコウ、即ち信仰するのは損だ」と嘯いたのにはみんなどっと湧き、おかげで座の気分は一段と柔らぐことになったのは、まことに秀逸だった。これはあとでも話の出た、「悟りに執するも不可」といった、AZ精神にも通ずる如くで、巧まずして演じられた概念催起の一こまで、ボクにはあとでも痛快に思われた。
 ユーモアのヒットならまだある。
 この集まりを心霊実験の会かなにかと思い込んできたとおっしゃる初顔の若い方が、「AZ」の名のいわれについてリンサンに尋ねたとき、その質問に続けて彼は、「Aははじめ、Zは終りだから、はじめからおわりまで−−」と敏なる理解でみんなを頷かせた後、更につけ足した。
 「中味がからっぽ」と。
 これには一同どっときた。まさに意表をつかれたかたちである。ボクはこの「空っぽ」というのが又気に入った。
 こういう具合で、ここかと思えば又あちらの、いかにもAZタイプの笑いをはさみながら、歓談は続けられた。
 話題は時間の都合で必ずしも多くはなかったが、いずれもが単なる理屈ではなく、話の曲がり角には何かキラリと光る生命の断面がみてとれるようであった。AZの運動をはじめた動機、ことばの不実さ、ノイローゼ考等々。
 リンサンはこの間終始頷くような話しぶりだったが、新興宗教の集まり研究発表と異なってこれが却って何かAZの根底を暗示する如くにボクには受けとれた。われわれの仲間であるリンサンは、恐らくみんなの話の中に自分をみつめていたのかもしれない。
 とも角も、ひとりひとりが聞いて話してというには時間が少なすぎたが、それだけでないある理解、AZなる何ものかが、みんなの胸を充たしていたのであろう。