ラティハンが生活に溶ける
1961.7.12 「季刊スブド」No.9 より 
 ラティハンが生活に溶ける時は、スブドが世間のなかに溶けてしまう時だ、と私は思っている。
 ラティハンと俗生活の区分がハッキリしているうちは、スブドはまだ本物になっていない、というよりその人の全体にスブドが滲みわたっていない証拠ではないかと考える。
 スブドに忠であるということは、スブドという名の国際団体やムハマッド・スブーという一個人に対して忠であることではあるまい。スブドに忠であるということは、自分自身のなかに絶えずはたらきかけている神の力に忠実だということであるべきだ。これを明らかに意識し出したとき、ラティハンはもう生活のなかに溶けているはず。
 [私を真似するな」とバパはいう。
 バパのような人が何百人この世に出来ても仕方がない。バパの位置は、神からバパにだけ与えられた位置であって、他の誰もその位置に坐ることはできない。
 バパがついているから大丈夫、スブドに入っているから安心、ラティハンをつづけているから何もかもよくなるはず――こういう考えはみな妄想である。
 あなたをおいてスブドはない。あなたの外にスブドはない。あなたはあなたを見つめるだけ。そこにスブドがあると思われる。
 スブドは、あなたをあなたの道にもどす。そして、この狭い一本道をたどることによって、あなたは神に到る。
 スブドの目的は、人間が神に帰りつくことである。帰りつくことは神のなかに溶け込むことである。神と人の差別がなくなることである。神と人と一つになることである。
 そのとき、ラティハンは生活に溶ける。

 バパは「スブド」という名前にも固執していないと述べたことがあるそうだ。目下の世界の必要に応じた、もっと消化しやすい名称があれば、それをつけてもよいとさえ言っている。
 (Husein Rofe, Reflections on Subud)
 バパが考えていることは、スブド会員を無際限にふやすことではないらしい。バパはまず最初の呼びかけに応える少数の人々に、或る貴重な胚種をうえつけたいと思っているだけだ、というように私には思える。
 スブドは苗床であって、そこに育ち、露床に移植されて、そこでそれぞれの成長をとげなければならないのではないか。
 いつまでも苗床にいたいと思うのは、必ずしも神の意志にそわないかもしれない。
 呑気で安気であるということは、かならずしもその人が正しい場所にいるということにはなるまい。

 ラティハンのマンネリズムに落ち込んでいる人がいる。その人に、正しいラティハンはこうするのだと見せてやっても、それは本当の指導にはならない。それはせいぜい、他人の敬虔さに敬意を払うことだけにとどまって、それ以上には行かない。
 ラティハンは、いつも人を自己面接に連れもどす。その人が、スブドの上にあぐらをかいて自分の顔を見つめる努力を怠るならば、ラティハンは茶番になる。
 われわれのまわりに、バパが十人かりにいるとしても、それによってわれわれは別に向上することはない。自己注視をおろそかにしているかぎりは。
 われわれはバパを崇めて、その崇拝の快感に酔い痴れていたら、それだけスブド本質から遠ざかる。バパの言葉の深さに感心するだけでは、われわれの魂は一歩も前進しない。
 真の敬虔さとは、バパが邪魔なら、バパすら踏みこえて行くのでなければならぬ。
 あまりに余計なものが多すぎる。
 それが全部、自分のエゴを甘やかしている。そこにラティハンのマンネリズムが始まる。
 ただラティハンをやればよい。
 それはそうだ。しかし、この「ただ」ほどむずかしいことがあろうか。ラティハンごとに、そのときの自分を全部抹殺して、新しい神の生命にすべてをあげて行くのでなければ、ラティハンをやったことにはならぬ。
 きのうのラティハンを、1年前のラティハンを今日もやっている。過去のラティハンが快かったというために。今の私は正しい道にのっかっているという「自信」のあるために。しかし、それは見習いだ。
 1回ごとに、われわれは被造物の惨めさを死のごとく痛感しなければならない。そして命がけで、自分を神にあずけて行く。
 スブドをやって、少しでも道が解ってきたというのはウソだ。1回ごとに、五里霧中が徹底してこなければならぬはず。解ったものをすてる。そしてまた解らないところに入る。それがスブドであり、ラティハンだ。

 やがて、この呼吸がラティハンの30分間だけでなく、日常生活の一瞬一瞬に生きていることに気づきだす。
 今までおろそかにしていた日常生活が、実は大変な修練の場であることがわかってくる。ラティハンが生活に滲み出してくる。ラティハンが生活になってくる。
 目をひらいても、しゃべっていても、ものを聞いていても、それがラティハンであることがわかってくる。
 これは週何回かのラティハンと、日常生活のあいだの、絶え間なき、往復運動である。30分のラティハンのインチキ性は日常生活で露呈し、日常生活のインチキ性はラティハンで露呈する。ラティハンが全生活の鏡となり、全生活がラティハンの鏡となる。
 世的生活が大切なのは、その営みで一身一家を生かすためだけではない。世的生活の全部が霊化される課題としてそこに横たわっているから、容易ならないのである。
 しだいに、世的と霊的の境界線がボヤけてくる。それに応じて、ラティハンにも入りにくくなる。惰性でワッと入れていた昔が夢のように思われてくる。ラティハンの入りかけと終わりのころが特にむずかしい。自分の力では入れず、また終わることもできないのがよくわかってくる。
 ラティハンの入口で死の苦しみをする。投げ出すより手がない。神はラティハンをやらせてくれないかもしれぬ。このまま、永久に神から追放を喰うかもしれぬ。そのくらいの気持でやっと入る。すると、ラティハンをやれたということだけでも、たぐい稀な恩寵のように思える。
 終わるときは、自分で終えられないのであるから、とくに静かに神の声を聴かなくてはならない。この終わりぎわで、たいてい自己評価ができる。我を出して終わる。その出し方の程度。そこで試される。

 こんなことをくり返して行くと、ラティハンの中の心細さは、そのまま日常生活に浮き出してくる。自分がいかに全托をしていないかということもわかってくる。自分がいかに卑怯であるかもわかってくる。自分がこんなにも神に抵抗していたとは!