そのうちラティハンの惨めさも薄くなってくる。
 右に振れ左に振れ、迷妄のなかにあって迷妄と遊ぶコツもわかってくる。進歩も停滞も退歩もなくなる。あらゆる努力がいらなくなってくる。そのとき、ラティハンは生活と一枚になる。
 そして、あなたの言葉は人に通じなくなってくる。神があなたを通じてしゃべっているからだろう。
<季刊スブド>
ふたたび霊的、世的のかねあいについて
 ふたたびか三度か知らぬ。
 私はいつも同じことしか言わぬような気がする。そして、受け取るほうもいつも同じようにしか取らないのであろうか。人間界はすべてそのようなものだ。停滞と静止の慣性がこの「世」につきまとっている。改革と生命の前進は、いつも物質の抵抗に逢って頓挫する。失望し当惑し、それでも精神は動く。ガリレオの独白だ。だから、それでも私は書く。
 東京のヘルパー会が、昔の枢密院か、東京のトップマネジメントの会議のようになってしまった経緯を前に書いたことがある。この傾向は、新しい委員会が出来ても、いっこうに改まらず、東京においてはさらに、「ヘルパー・コミティ連絡会」のような形で前の行きかたが定着しそうである(1961年5月現在)。
 別に「純粋ヘルパー会」なるものを毎月第4水曜日に開くことになっていても、それは事態を救わない。東京ではすでに、重要な、また重要でない多くの事柄の決定権が委員会にはなく、すべてこの「霊的・世的連絡会」に持ち込まれる態勢になっている。これを言いかえれば、修練場維持費の徴収法(委員会を作ろうか? ひとりあたま300円にしよう? etc.)から、事務所の郵便アドレスの件にいたるまで、委員会は一々ヘルパー会に「お伺い」を立てねばならない。そして原案は大幅に修正され、委員会の士気は会合ごとに衰え、盲腸のごとき付属組織に成り下がる。この経過は今までいくども繰り返されたことであるから、私にはこれから先のことが手にとるように解る気がする。
 営利会社の重役会や政治組織のトップである閣議みたいなものとは、全然違うはずなのである。今のヘルパーたちがたとえ以前に委員会のベテランであったり、今も社会において何らかの組織の「経営者」であったりしても、それはこのことに何の関係もあってはならぬはずだ。会社にあっては、営業成績を上げることが会社全体の最高目的であるが、スブドの全組織の目的は何であろうか。お金の集めかたや修練場設営の仕方が拙劣であったとしても、それが何なのであろうか。問題はいかに効率をあげるかにではなく、委員会が「それ」を処理するということ自体に意味があるのである。
 小学生が片仮名や平仮名や平仮名の習熟のために何冊もノートを書きつぶす。下手な字を何ページ書くかということはどうでもいいのだ。先生が一足とびに、きれいな字を代わりに書いてやっても、それはどうにもならぬ。まちがいだらけの字を、子供たちが何回も書くという、その行動自体に意味があるのではないか。
 スブドに霊的・世的の両組織があるのは、人間に魂と心の二つがあることの象徴であるとバパは述べた。心には心の仕事がある。計算機を廻し、帳簿を〆めるのは心の仕事である。タマシイの機能はひたすら神の礼拝だけである。魂が自己の職分をあと廻しにし、心と一しょになってソロバンをはじいたりしたら、どんなことが起こるか。魂は心に化ける。魂は心に占領される。そこには魂の窒息しかない。
 「お任せする」と言っておいて、あとになれば「ドレドレ見せろ」と言っているのが、東京のヘルパー会である。霊的組織とは名目だけになり、「世的枢密院」だけが活動している。
 委員会がヘルパー会に頼ってきたら、それをまず選別すべきである。問題が世的領域のものであれば、そのままお返しするだけのことだ。「そちらで適当・最善に決めて下さい」― これだけで済むはず。そして「コミティー・ヘルパー連絡会」のようなものは存在価値をうしない、自然消滅する。
 私は東京の「連絡会」には今後出席しないつもりである。だいたい、論議することがないのである。そのくせ、出席すれば、皆の「下に引っぱる力」に影響されて、私もまた心にもないことを言わねばならぬ。私はヘルパーの任に忠実でなければならぬ。私が委員会の仕事に口をだせば、それだけ委員会の力を弱める。委員会の力が弱まるということは、一般会員の積極性をそぐということにもなる。私にとって最善の策は「出席しない」ということである。

 五月の連絡会で寄金の問題がむし返された。皆は一人が五百円千円出す有志を集める「維持会員制」に賛成のようだ。それがより「確実な」方法だからというわけである。そして「スブド寄金」の本義が閑却される。たとえ一人が一万円出す「特別会員」になって、そのことに自己満足をおぼえたとしても、それは「寄金」の精神と関係ない。自分も千円だすから君も出せ――それはおたがいをあてにした行為である。会場費を払えるかどうかということは、この際問題ではない。純粋寄金の精神で行なって、なおかつ会場が維持できない事態になったら、それがいつわらざる東京支部の姿である。それは直視しなければならない。会場閉鎖のうきめに会って、一般会員からどうにかしてもらいたいという切実な声がおこってこそ本当である。われわれは本音で行きたいのである。「本音の行動」において、ある金持がポンと一万円出す。他の会員が十円だそうと百円だそうとそんなことは構わぬ。これが純粋行為である。相語らって、人がそうしなくては自分もそうしないというのでは、スブドが同胞会であるという意味もなくなる。経営の技術がどんなに巧妙になっても、そこに「あるもの」が失われたら、アブもハチも取れぬ。
 事は寄金問題だけではない。全国各支部において、ヘルパー及びヘルパー会のあり方は、きわめて重大である。ヘルパー会がよりいっそう霊的になったとき、コミティーはもっとも有能な世的組織になる。霊的組織はただ上方に伸びることだけを努めるべきだ。それに比例して、世的組織も活発になる。東京の今のような行き方では、共倒れである。
寄金と私
              −この図々しさー
                           じゅうびし・りん

 こないだ茶の間に坐っていたら、テレビで獅子文六の「娘と私」をいうのを